目指すのは不死
不放逸こそ仏道です Diligence guides to deliverance
今月の巻頭偈
2.Appamādavaggo第二章 不放逸 \
21.Appamādo amatapadaṃ
Pamādo maccuno padaṃ
Appamattā na mīyanti
Ye pamattā yathā matā
つとめ励むのは(不放逸は)不死の境地である。
怠りなまけるのは(放逸は)死の境涯である。
つとめ励む(不放逸の)人々は死ぬことが無い。
怠りなまける(放逸の)人々は、死者のごとくである。
22.Etaṃ visesato ñatvā
Appamādamhi paṇḍitā
Appamāde pamodanti
Ariyānaṃ gocare ratā
このことをはっきりと知って、
つとめはげみ(不放逸)を能く知る人々は、
つとめはげみ(不放逸)を喜び、
聖者たちの境地をたのしむ。
酔わないこと
人は酒・麻薬だけで酔うわけではありません。それはたまに起こることですし、酔いから覚めることもできます。それに対して、無知と感情で酔うことは重症です。人間は皆、無知と感情で酔って、酔いから覚める方法も知らないまま生きているのです。酔った人は、やるべきことをやりません。やろうとしても、失敗だらけになります。だったら、やらないほうが良かったのに、と言わざるを得ない状況です。酔うことで、人は不幸に陥るのです。覚める方法すら知らない酔いによって、どこまで不幸に陥るかと想像できます。その人はこの世でもあの世でも、不幸から不幸へと堕落していくのです。身体に物質を取り入れて酔うことは簡単に止められるので、仏教は酒・麻薬などを使わないことを推薦しています。残る問題は、無知と感情で永久的に酔っていることです。この酔いから覚めるためには、智慧を開発するプログラムを実行しなくてはいけないのです。
不放逸
Appamādaは不放逸と訳されます。Pamādaとは放逸のことで、語根は「酔う」という意味の√madになります。そういうわけで、放逸の解釈は後回しにして、酔うことから話を始めたのです。Appamādaは仏教の第一のキーワードです。今の時点で自分が行わなくてはいけないことをサボって、別のことに時間を費やすことはpamādaなのです。放逸と不放逸は、このような意味で使われています。俗世間的な解釈を入れると、「今やるべきことは今やりなさい。後回しにしてはいけない」という意味になるので、わかりやすいでしょう
自我の司令塔
人には自我(わたし)という錯覚があります。認識する過程で、この錯覚が生じてしまうのです。眼耳鼻舌身意で色声香味触法を認識しても、貪瞋痴、怒り嫉妬憎しみなどの感情を作る必要はありません。しかし、われわれは眼耳鼻舌身意に触れる情報を好き嫌いで分ける。それに伴った感情も惹き起こす。結果として、客観的なデータをありのままに認識することなく、自分の感情を掻き回しただけで終わるのです。
この状況を文学の真似をして語ると、わかりやすくなります。「あなたに目があっても何も見ていない。耳があっても何も聴いていない。鼻があっても香りをかいでいない。舌があるにもかかわらず何も味わっていない。身体にものが触れても感じていない。思考能力があっても思考していない。要するに『生きている』と言い張っているが、あなたは死人と何の変わりもないのだ。」このように言われたら、異議を申し立てたくなるでしょう。しかし、お釈迦さまは「放逸の人は死人のようである(ye pamattā yathā matā)」とはっきり説かれているのです。
自我の錯覚は個人の主観です。「自我は皆にあるから平等だ」と思ってはならないのです。なぜならば、わたしには他人の気持ちはわからないからです。他人にわたしの気持ちを理解することはできません。皆、自我の錯覚という殻に閉じ込められて、孤独に生きているのです。他人と仲良く生活しようと思っても、次から次へと問題が起こります。自我の錯覚で孤立しているわたしたちは、自分の感情を掻き回すために「わたしが見たいものを見る、聴きたいものを聴く……」という生き方をしているのです。自分をありのままに知る、世界をありのままに知る、という気持ちなどさらさらありません。つまり、あなたが今行っていることは、あなたの「自我の錯覚」が指図していることに過ぎない。決して、客観的に行わなくてはいけないことではないのです。やりたいことをやって、感情を掻き回して、自我の錯覚に酔って、目覚める方法も知らないままで生きている状態。これを放逸というのです。
死の境涯
放逸は死の境涯である。この強烈な言葉で、お釈迦さまが人類の生き方をまとめて示したのです。これは「放逸だと死ぬ」という意味ではありません。行うべきことを行わないで、「わたしがやりたいこと」をする生き方は、幸福に至る道ではないのです。感情を掻き回すこと。他人と争うこと。自我に誘惑されて期待・願望をつくってその蜃気楼を追うこと。悩み苦しみに陥ること。何を目指して生きていても、最終的にすべて無駄になること。感情は強化するばかりで減ることがないから、死後も新たな生をつくってまた同じプログラムで生きてしまうこと。すべては終わりのない悪循環です。「死の境涯(maccuno padaṃ)」とは、そういう意味なのです。
死にたくない
人は死にたくないのです。「火傷したくない」というなら、具体的で論理的な言葉です。経験もあります。自分が火傷したことがない場合は、火傷した人に訊けばよいのです。では、「死にたくない」という強烈な感情は何でしょうか? 自分に死んだ経験もないし、死んだ人からそのエピソードを聞かせてもらうこともできません。「魚は食べられますが、魚の足は猛毒です」というような奇妙な話です。
身体は「死にたくない」と思っていないのです。細胞がつねに大量に死んでいます。しかし、怖さは感じません。こころも瞬間的に死んで現れるプロセスです。身体の変化よりも速いスピードで思考が変化して、新しい思考が生まれます。しかし、こころの死に対しても、怖いと思ったことはないのです。つねに、絶えず、死に続けているにも関わらず、わたしたちは「死ぬのが怖い」のです。この非現実的な希望は、自我の錯覚から起こるものです。自我の錯覚が、「死にたくない。永遠に生き続けたい」という錯覚もつくるのです。
人はこの錯覚を追い求めるのです。死なないために、苦労に苦労を重ねて頑張っていますが、今まで成功した人は一人もいません。しかし、努力だけはあきらめません。錯覚の殻に閉じ込められたら、そういう結果になります。たとえで説明しましょう。「ペガサスの翼は何色でしょうか?」議論する必要も、研究する必要もない話です。ペガサスは人間がつくった妄想概念に過ぎないのですから。もうすの産物について、翼があるかないかと思い悩む必要もないのです。「自我は錯覚である」と目覚めた人は、「死ぬのが怖い」という妄想概念からも解放されます。その人には「生きる」という妄想も希望もないし、「死ぬ」という妄想も希望もないのです。「不死の境地(amatapadaṃ)」とは、この状態(自我の錯覚が消えた状態)のことを言うのです。
目覚める道
お釈迦さまは、われわれが錯覚から目覚める道を説かれるのです。それが仏道です。仏道の実践では、今の瞬間に気づくことを推薦しています。善し悪しを判断しないで、主観で価値観を入れないで、今の瞬間に気づく訓練をし続けるのです。この実践方法を知ると、「あまりにもシンプルだ。修行と名づける価値すらない」と皆思うのです。そのとおりです。しかし、実行してみて下さい。「今に気づくことほど難しいことはないのだ」と発見するでしょう。実践してみても、失敗する経験しか出てこないでしょう。そこで人は、自分の客観的・具体的・合理的な生き方を邪魔する何かがある、と発見するのです。それが「わたし」です。つまり、自我の錯覚です。その時点で、「なぜ自我の錯覚が起きたのか」と具体的に発見しているのです。錯覚が消えたら、もう「不死の境地(amatapadaṃ)」に達しているのです。
不放逸とは仏道そのもの
仏教の第一のキーワードは不放逸(appamāda)である、と既に述べました。お釈迦さまの最期の躾【しつけ】の言葉も、不放逸(appamāda)でした。無知な人々は、「わたしがやりたいこと」を行なって、不幸から不幸へと陥ります。瞬間の安らぎも感じないまま、不満と怯えに包囲された生き方をしているのです。Appamādaを実行することが究極の安穏に達する道であり、苦しみを乗り越える道なのです。お釈迦さまが説かれた経典はたくさんあります。修行の仕方もさまざまに語られています。しかし、お釈迦さまが教えたことのすべては、不放逸(appamāda)という一語に集約されるのです。
What? Why? How?
現代人の知識と技術の発展は、「What? Why? How?」という三つの疑問に答えを見出そうとしたことの結果です。そこで、世界が変わったのです。しかし、皆忘れた項目があります。それが、「わたし」です。実験よりも思考することを好む人々は、「わたし」なるテーマについてあれこれ考えたのですが、結果として「わたしとはこのようなものである」と、互いに違う無数の概念が現れただけでした。つまり、宗教と哲学の世界が現れたのです。この手の話を、お釈迦さまは「我論という見解(邪見)」と名づけています。我論は人の抱える問題を拡大するだけで、一向に解決しないのです。
思考する人々の問題は、そのスタート地点にあります。前提的に、「わたしがいる」と認めてから考えたのです。いるに決まっているわたしに対して「What? Why? How?」を当てても、結論に達しないのは当たり前です。限りなく意見・見解が現れるだけです。人は強烈に「わたし」という錯覚に執着しているのです。執着がある人は、「わたしがやりたいこと」をやっているのであって、客観的・具体的に「やるべきこと」をやっていないのです。
理性ある人であれば、「わたし」を研究する以前に、「わたし」という自覚がどのように現れるのかと調べるのです。その自覚が自分にあるので、自分自身で調べて、結論に達することができます。人の話に乗る必要はないのです。ブッダも科学者も「What? Why? How?」を使いました。しかし、科学者と俗世間の知識人にとっては、わたしがいることは当たり前で、調べる必要はなかったのです。ブッダだけが、「わたし」という概念に「What? Why? How?」を入れて調べたのです。達した結論は、「わたし」とはさまざまな原因で起こる錯覚に過ぎない、ということです。結果として、究極の安穏に達したのです。「涅槃」と呼ばれるこの境地については、語れないのです。なぜならば、世に存在するすべての概念、すべての言葉は、「わたしがいる」という前提で出来上がったものだからです。世にある言葉・概念から、「わたし」という主語を外すと、意味も消えてしまうのです。
例として、「雨が降る」という客観的な事実のように見えるフレーズを考えましょう。「雨が降る」と、わたしが言うのです。わたしがいないならば、「雨が降る」というフレーズは現れません。「涅槃を説明する言葉・概念がない」というのは、一切の言葉と概念は「わたし」という錯覚がなければ成り立たないからです。ブッダの説く実践を行わない人が、「わたしは実在しない」と言っても、その意味は〈「わたしは実在しない」とわたしが言う〉ということになります。「わたしは実在しない」と発見した人なら、それをどのように語るのでしょうか? 「何も語らない」が答えです。お釈迦さまも「道」を教えたのであって、「涅槃」について語ってはいないのです。
賢者の道
賢者は不放逸を実行します。「わたしがいる」という錯覚はどのように現れたものか、と発見します。因縁によって一時的な現象が現れては消える過程があるのみで、〈実体として「わたし」も「他人」も成り立たない〉ということを発見するのです。そこで、おのずから現れるのは究極の安穏なのです。理屈を使って言うならば、「原因がないから顕れた境地を、無くすことも揺るがせることも不可能」ということになります。その境地に、俗世間の単語を用いて「涅槃」というラベルを貼っているだけです。
すべての存在は、「自我の錯覚」を基礎にして成り立ちます。ブッダが説かれる不放逸を実行しようとしても、その実践者もまた「自我の錯覚」を基礎にして成り立っている現象です。ですから、不放逸の実践は容易いものではありません。限りなく失敗を経験します。それでも、強い精神を持って、あきらめることは一切なく、精進・努力しなくてはいけないのです。とはいえ、それは気が遠くなるほど精進せよ、という話ではありません。実践者は理性を使うのです。思考をやめてみるのです。そうすると、おのずから真理が顕れてきます。まもないうちに、「不動の安穏に達した」と経験するのです。
ブッダの詩
偉大なるキーワードである不放逸(appamāda)をテーマにして、ブッダが偈をとなえたのです。
不放逸は不死の境地である。放逸は死の境地である。
不放逸の人は死を経験しない。放逸の人は死人も同然である。(21)
人は放逸・不放逸の差を知るべきである。そして不放逸を実践すること。
理性ある人は不放逸を喜ぶ。それが聖者たちの生き方である。(22)
強い精神を持ち、不放逸を実践する理性ある人々は、
あらゆる修行の終了たる、この上なき涅槃を体験する。(23)
今回のポイント
- 生命はつねに無明と感情に酔っている
- 酔った人の行いは正しくない
- 酔って生きるので苦しみは絶えない
- 目覚めの道は不放逸と言います
- 不放逸の人は苦を乗り越えて安穏に達します