阿羅漢とは「私」が消えた存在です
煩悩は言葉まで汚染する Emotions distort communication
今月の巻頭偈
Arahantasuttaṃ (SN 1.25)阿羅漢経(『相応部』1-25) \
“Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya,
Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā”ti.
“Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya,
Mamaṃ vadantītipi so vadeyya;
Loke samaññaṃ kusalo viditvā,
Vohāramattena so vohareyyā”ti.
“Yo hoti bhikkhu arahaṃ katāvī,
Khīṇāsavo antimadehadhārī;
Mānaṃ nu kho so upagamma bhikkhu,
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya;
Mamaṃ vadantītipi so vadeyyā”ti.
“Pahīnamānassa na santi ganthā,
Vidhūpitā mānaganthassa sabbe;
Sa vītivatto maññataṃ sumedho,
Ahaṃ vadāmītipi so vadeyya.
(女神)
「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身を保つ比丘は
言えるであろうか、『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と」
(釈尊)
「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身を保つ比丘は
言えるであろうか、『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と。
巧みな者は世の名称を知り
慣用語でのみ表わすであろう」
(女神)
「阿羅漢となり、なし終え、漏が尽き、
最後の身を保つ比丘は
言えるであろうか、比丘として
慢によって『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と」
(釈尊)
「慢の捨断者に縛りはなく
慢の縛りはみな破られている
その妄執を超えた賢者は
言えるであろう、『私が語る』と、
また『かれらが私に語る』と。
巧みな者は世の名称を知り
慣用語でのみ表わすであろう」
「私」という実感
我々には、「私」という実感があります。話す時でも、考える時でも、他の行為をする時でも、「私」という実感が割り込んでくるのです。「私」という実感なしに、自分の存在は成り立ちません。例えば「お腹が空いた」と言う場合、我々は医学的な事実を言っているわけではないのです。「私のお腹が空いた」という、自分の感覚について語っているのです。もしかすると、その人は医者から厳しく食事制限を課されている可能性があります。しかし、自分のお腹が空くことはそれと関係ないのです。食べる量についても同じことです。身体の重さと運動量などなどを計算すると、一日どれぐらいカロリーを摂ったほうが良いのかとわかります。それでも、自分という実感はデータに合わせてくれないのです。自分の気が済むまで、食べたくなるのです。人としゃべる時でも、感情的になったり、怒ったり、落ち込んだりするのは日常茶飯事です。ここで、情報の交換は行っていないのです。起きているのは、「私」と「他人」という自我のぶつかり合いです。両方とも自我を張っているならば、トラブルが大きくなるし、一人だけでも自我を控えているならば、その分、トラブルが少なく済むのです。
「私」と言うべき実体があるかないかを調べることは、いまだかつて誰もやっていなかったのです。生命には疑うべからざる前提として、「私」が存在するとされたのです。なんとなく、その前提で生きていることに疑問を感じたインドの宗教家たちは、真の自我を探し求めました。その結果として、インドの諸宗教の中にたくさんの我論が現れてきました。しかし、誰にも真の自我を発見できませんでした。その代わりに「真我」について、たくさんの自説が語られたのです。それから、自分たちの我説は他の我説より正しいと、激しく論争することになりました。結局、悩み苦しみ落ち込み争いなどの苦しみの原因は、自我という実感にあることには、誰も気づかなかったのです。
ここで、「あの人が私を侮辱した」というフレーズを分析してみましょう。「あの人」とは、他人の我です。「私」とは、自分の我です。侮辱の意味は、相対的に理解しなくてはいけないのです。「私」は自我が尊いと思っています。どれほど自分が偉いかということに合わせて、相手の言葉による被害度が変わるのです。人の言葉に「侮辱」というラベルを張っただけで、自我が割り込んで被害度まで計算し終えているのです。悩むのは喋った人ではなく、言葉を聞いた人です。このプロセスは瞬時に起こります。だから、自我意識が現れたその瞬間から、人に悩み苦しみが「定め」のように起きてくるのです。このカラクリからは逃げられないのです。
新たな見方
ブッダは決して、「皆が言っているから」という一般論には乗りませんでした。「何人が認めているのか?」ということは、真偽を判断する際には関係ないのです。ブッダは前提に乗ることなく、客観的にその概念を観察してみたのです。結果として、「人はその都度その都度、色受想行識の働きに「自分」というラベルを張っているのだ」とわかったのです。色受想行識とは、命を構成する五つの働きです。その五つは互いに影響しあっているし、因縁によって絶えず変化して流れるものです。ゆえに、「一貫して変化しない『自分』というものは存在しない」と発見したのです。自我とは人の錯覚であって、存在しない現象だと発見したところで、すべての悩み苦しみが終わってしまった。覚者には、「あの人は私を侮辱している」というフレーズは成り立たないのです。ブッダにとっては、耳が音に反応して聴覚の流れを惹き起こしているだけです。
それからブッダは、人々に悩み苦しみを無くす方法を説き続けました。ブッダの話に納得した人々は、自分自身で自分の存在を観察してみました。そして、ブッダと同じ結論に達したのです。その人々もまた、悩み苦しみが消えたのです。真理を発見した弟子たちには、世間的に阿羅漢という名前がつけられました。師匠である釈尊のことは、特別にブッダ(佛陀)と呼んだのです。
阿羅漢の自覚
阿羅漢に達した聖者には、はっきりした明確な自覚があります。自分のこころに悩み苦しみは生まれるはずがないと知っているのです。言葉を変えると、阿羅漢とはこころの中で「自分という概念」が消えた人なのです。阿羅漢には、「自分」が存在しません。一般人にとって、すべての思考と概念の主語は「私」です。「今日は雨です」というのは三人称の言葉です。しかし、このフレーズは誰かが言わなくてはいけない。だから、「今日は雨です」の意味は、「今日は雨だと私が思う」になるのです。また、目の前で雨が降っているならば、「思う」ではなく、私の経験です。
一般の人々に「私」という主語が無ければ、考えることも妄想することも話すことも、勉強したり仕事をしたりすることもできないのです。料理を作ったり食べたりする時も、「私」が必要です。だから、誰かのこころから「私」という実感が消えてしまったならば、それは革命的な変化なのです。人間と名づけるべき存在でなくなるのです。人間ではないばかりか、霊でも神でもないのです。神にさえ、「私は神です」という実感があるのです。「すべての生命の次元を破って乗り越えた」という意味で阿羅漢と言われますが、実は阿羅漢には「私は阿羅漢です」という実感すらないのです。しかし、「私」という主語が消えてしまったことは、明確に知っています。誰かが阿羅漢に向かって「あなたは阿羅漢ですか?」と訊いても、阿羅漢にとってそれは何の意味も持たない雑音に過ぎないのです。「はい」と答えても「いいえ」と答えても、質問者が誤解に陥るだけの結果になります。今日の話のポイントは、「阿羅漢には『私』が存在しない」ということです。
女神の問い
こころの流れの中で「私」という主語が完全に消えた人は阿羅漢であると、仏教徒の中でも知られていました。今日の対話に登場する女神も、それを知っていたのです。この女神は、聖者たちが住んでいるところを行き来して、聖者たちの行いを観察していました。その際に、聖者たちが「私」「私の」「私に」などの単語を会話で使っていることが耳に入ったのです。女神は、この比丘たちがまだ阿羅漢に達していないと結論づけました。それでも、なんとなく納得がいかないから、お釈迦さまに質問しようとやってきたのです。
為すべきことを為し終えて、煩悩を滅尽して、最後の身体になった阿羅漢は、
「私は語る、〔誰かが〕私に語る」などの言葉を使うのでしょうか?
阿羅漢のこころから「私」という主語が跡形もなく消えたという説明を聞いたら、誰だって女神のように疑問をいだくことでしょう。「阿羅漢は人とどのように喋るのか?」と、知りたいものですね。この女神は素直に、お釈迦さまに尋ねたのです。
ブッダの答え
為すべきことを為し終えて、煩悩を滅尽して、最後の身体になった阿羅漢は、
「私は語る、〔誰かが〕私に語る」などの言葉を使うのです。
阿羅漢は世間の一般常識に巧みな存在です。
世間常識的に認められている言語の法則に従って語るのです。
阿羅漢も、言葉の使い方は一般人と同じです。阿羅漢・聖者だからと言って、決して特別な言葉を使わないのです。宗教の世界では、このような現象はよく見られます。「私は神だ、ホトケだ、ブッダだ」と言い張る人々は、あえて一般人の言葉づかいをやめて、他を見下した気分で語るのです。あるいは言葉の動詞はすべて命令形になってしまうのです。一般人には、言葉の使い方で相手が阿羅漢かどうかを判断することはできません。誰かが「今日は雨です」と言ったら、阿羅漢も「そうだね。今日は雨です」と返事するのです。
言語規範
人々はたくさんの言語を使っています。それぞれの言語には言語規範というものがあるのです。言語の正しい使い方を私たちは学校で習います。好き勝手にそれを破ることはできないのです。言語はその言語を使う人々の共通財産です。しかし、言語規範はすべての言語に同じではないのです。例えば、「いただきます」というフレーズは、英語では言えません。直訳できますが、英語を知っている人に必ず笑われると思います。I respectfully accept this foodsは直訳ですが、笑われるのでDeliciousと言って身を守ったほうが良いでしょう。その他にも、日本語で「いただきます」という意味を示すフレーズはたくさんあります。言葉を喋る人々は、その言語規範をギリギリまで守るべきなのです。
阿羅漢に達した人は、一般人よりは言葉に巧みになる可能性があります。人が喋ると自我が割り込むので、言いたいポイントを正しく伝えられないというハンディがつきまとうのです。時々、人々は意味不明の単語も使います。私のような老人が若者の対話を聞くと、何を言っているのかわからない単語やフレーズがたくさん出てくるのです。いま思い出したのは、「あのさぁ、だってさぁ」というフレーズです。この「さぁ」はなんでしょうか? 感情を持つ人々は自分の意見をそのまま正しく伝えることができないので、このような意味不明の単語まで使うのです。阿羅漢のこころに「私」という主語が消えたので、単語の意味と使い方、文法の流れを客観的に知ることができるのです。ですから、一般人よりも明確に意味が伝わるように語れるだろうと思います。
正しく語る
お釈迦さまは「真理を正しく完全に汚れなく語っているのだ」と仰っています。なぜ「正しく語る」とあえて強調するのでしょうか? 人間の言葉は不完全なので、自分の意見が誤解される危険もあります。誰かが言った言葉の過ちを取り上げて、その人を批判することもできます。現実的には、完全に語り尽くすことはありえないほど難しいのです。問題は、語る人に「自我」という錯覚があることです。正等覚者になったブッダには、自我の錯覚はありません。かつて王子様だったので、しっかりした学識もあります。だから、真理を「完全」に語ることができたのです。これは俗世間ではあり得ない特色なので、仏法(dhamma)の特徴として「svākkhāto善く、正しく説き示された」と、あえて強調しているのです。
皆様もパーリ経典を読んだことがあるでしょう。今度、調べてみて下さい。ブッダ自身が語っていることは明確ですが、ブッダの言葉には一人称は出てこないのです。見事に、三人称で真理を語り尽くしています。しかし、わずかな箇所では、「私」という主語をあえて入れる場合もありました。それは、話しているポイントが世間の考えと反対であることを示すためです。そういう時は、ブッダが自分自身で責任を保つのです。「Cetanāhaṃ bhikkhave kammaṃ vadāmi比丘たちよ、私は意志が業だと説く」という経典のフレーズは有名です。インドの宗教家は、業について様々な説を出していました。業に関するブッダの意見は、従来の諸説と真っ向から違うので、「私」という一人称を使ったのです。ブッダの教えはすべて三人称で語っています。自分自身を示さなくてはいけない時も、「私」ではなく「如来」という三人称を使っていたのです。
完全に語られるという能力は、如来の特色です。阿羅漢たちもそれなりに言葉の達人にはなります。しかし、一般常識的に「私、私に、私の」と使うべき時は、なんの躊躇もなく使います。しかし、「真の私は存在しない」と覚っているのです。
慢
「私」という錯覚がmāna慢に変身するのです。世間は「私」という自覚に反対しません。自分を大事にしなさい、命には計り知れない価値があるのだ、と言うのです。命を粗末に扱うこと、自害することを批判します。「自殺は重罪で、必ず地獄に堕ちるのだ」と宗教がうわごとを言うのです。
私がいるならば、相手もいる。その他の生命もいる。それで、私中心に他の生命を比較することが可能です。それが慢という感情です。前提として、誰でも「自分が一番偉い、自分が正しい」という価値観を持っています。この尺度を持って生きてみると、自分より卑しい生命も、自分より偉い生命も、自分と等しい生命も発見するのです。「あの人が私を侮辱しました」という感情は、慢が割り込んだ結果です。私は偉いのに、あの人がそれを否定した。怒らなくてはいけないのです。怒れる相手ではないならば、落ち込まなくてはいけないのです。
自我を認める俗世間ですが、慢に対しては否定的です。誰かが自慢すると嫌な気持ちになります。「そんなに我を張るなよ」と叱ったりもします。そうやって他人の慢を叱るが、他人を叱る気持ちになったのは自分に慢があるからだと理解しないのです。誰かが自慢すると聴いていられないのは、自分の自我意識と慢がそれを受け入れたくないからです。自我の錯覚から慢が現れます。しかし、慢と自我は同一ではありません。働きが違います。自我があるだけでは他人と喧嘩しないが、自我から慢が生じたら他人と喧嘩したり、他を批判したりし始めるのです。これは海と波のような関係だと理解して下さい。海岸浸食するのは海ではなく、波です。しかし、海がなければ波もないのです。
世間は自我に肯定的ですが、慢には否定的です。しかし、慢を無くすことはできないのです。このテーマについて、女神が二番目の偈で質問しました。
女神の問い
為すべきことを為し終えて、煩悩を滅尽して、最後の身体になった阿羅漢は、
こころに慢が生じるから、
「私は語る、〔誰かが〕私に語る」などの言葉を使うのでしょうか?
ブッダの答え
慢とは自我の錯覚が変身した結果ですから、自我の錯覚が消えた阿羅漢のこころに慢は存在しません。女神はそれを理解していなかったようです。「私が語る」と言う場合は、当然、私と他人が成り立ちます。俗世間では、そこから慢が働き出すのです。ですから、「一人称で語る阿羅漢たちにも、慢があるのでしょうか?」と質問したのです。
お釈迦さまは、このように答えます。
慢を遮断した人になんの束縛も存在しないのです。
慢にかかわるすべての感情は完全に滅んでいる。
慢の範囲を超えた賢者は世間の常識に従って
慣用語として「私、私の」という言葉を使うのです。
束縛
煩悩について語る場合は、色々な単語を使います。Gantha束縛もその一つです。人はモノに、生命に、また自分の知識・名誉などに、最後は自分の命に、束縛されているのです。執着しているのです。こころから「私」という実感が消えたら、すべての束縛も、執着も、跡形もなく消えてしまいます。要するに、成り立たなくなるのです。地震が起きて地面が崩れたら、上に建っている建物が壊れてしまうでしょう。すべての煩悩が成り立つ土台は、自我意識です。それがなくなると、自我意識の上に現れたすべての煩悩も共倒れになるのです。
この対話のポイントは、「使う言葉をチェックしても、語る人が覚っているか否かを判断することはできない」ということです。それでも、阿羅漢は一般人よりも巧みに言葉を使うのです。
今回のポイント
- 命は「私」という錯覚の上に成り立っている
- 人には客観的に語ることは難しい
- 「私」という錯覚が悩み苦しみ争いの元です
- 正しく語るためには「私」という錯覚を無くすべきです
- 完全に語る能力はブッダに限られた特色です。