静けさが怖い
好まない音だけ騒音公害と認定する過ち Sound pollution and sound addiction
今月の巻頭偈
Saṇamānasuttaṃ(SN 1.15)鳴動経(相応部 1.15) \
Ṭhite majjhantike kale
Sannisīvesu pakkhisu
Saṇateva mahāraññaṃ
Taṃ bhayaṃ paṭibhāti maṃ
まさに真昼の盛り時
鳥が静かに止まる頃
大きな森が鳴り響く
それは私に恐れと映る
Ṭhite majjhanhike kale
Sannisīvesu pakkhisu
Saṇateva brahāraññaṃ
Sā rati paṭibhāti maṃ
まさに真昼の盛り時
鳥が静かに止まる頃
大きな森が鳴り響く
それは私に喜びと映る
騒音で落ち着く
騒音なら誰でも、うるさいと思うことでしょう。落ち着くどころではなく、イライラして神経質になるところでしょう。騒音公害を訴えて、国や企業から損害賠償を受けることもあります。希望通りの損害賠償を受けたからといって、騒音公害が解消されるのかよく分かりませんが、みなそれで納得しているのです。一般的に騒音は、人に精神的な害を与えると思われているようです。それが科学的に事実であるとも思っているのです。しかし、先入観と主観を省いて観察してデータを取るならば、まったく違う結果になる可能性もあります。
もし東京・品川・新宿などのターミナル駅で、すべての音を止める指令を出したとしましょう。駅を使う何百万人の人々も、できるだけ足音も立てないように気をつけて歩くことになったとします。おそらく、怖くてたまらなくなることでしょう。駅のホームでは、絶えることなく流れるアナウンスのおかげで落ち着いていられるのです。ホームに電車が入る場合、アナウンスしなくても問題ないのに、「電車が入ります」というアナウンスが繰り返し流されます。それでも物足りなくて、テキスト一冊分くらいの情報を引き続きアナウンスするのです。同じ情報を英語・中国語・ハングル語でアナウンスする場合もあります。電車がホームに入ってから電車に乗るまでの時間、騒音の攻撃は瞬間も止まらないのです。アナウンスだけでもストップしたら、みな不安に陥るに違いありません。
BGMもアナウンスもまったくないデパートを想像してください。怖くて入る気にならないかもしれません。BGMと様々なアナウンスだけではなく、店員さんのご挨拶、各店の人々の延々と流れる丁寧な説明があるからこそ、デパートが気持ちを穏やかにする環境になっているのです。アナウンスも音楽も止めて、夏に盆踊り大会を開いてみては如何でしょうか? みな、踊っている人々は精神的におかしいと勘違いして、怖くなって逃げるでしょう。『月刊住職』2019年7月号に、川崎大師境内で催された「サイレントディスコ」の記事が載っていました。周りの住民に迷惑をかけずに盆踊りもディスコもできるのではないか、というアイデアです。しかし、問題があります。それは文字通りのサイレントディスコではない、ということです。サイレントディスコでは、DJブースから流れる音楽を一人ひとりがBluetooth接続のヘッドフォンを使って好みの大音量で聴くのです。一般的にスピーカーから流す音よりも、個人の耳に当てて流す音のほうが、もっとうるさいと思います。気持ちよく踊っている人のヘッドフォンの音が突然切れたら、その人はびっくりして、音が出るヘッドフォンに取り替えてもらうでしょう。こういう事態も考えられます。ヘッドフォンに音を飛ばす機材の不都合で音が途切れたりノイズが入ったりする場合、Bluetoothの電波干渉でまったく関係のない音がヘッドフォンに入ったりする場合は大きな問題が起きます。参加者は皆、文句を言うでしょう。結局は、サイレントディスコなどは成り立たないのです。耳に音が入ることで、みな落ち着くのです。騒音公害と言っているわりに、みな騒音に頼って精神的に落ち着いているのです。
田舎暮らしは怖い
都会に住んでいる人々は、田舎暮らしができれば静かでとても気持ちよいことだろう、と妄想します。精神的にも落ち着いていられるだろう、と夢見るのです。もし一週間、人里離れた田舎の家で生活するチャンスに恵まれたとしましょう。その妄想家は必ず行くのです。しかし、家に入ってすぐ、テレビを付けたり、ケイタイで動画を観たりするのです。田舎なので、テレビのチャンネル数は少ないし、面白くもない。ケイタイの電波も弱くて通じにくい。周りも見ても家がない。車の音も、救急車の音も聴こえない。夜寝る時は、最悪の状態に陥ります。あまりにも静かなので、微妙な音にも心臓がドキドキします。お化けでも出るのではないかと怖くなります。結局、一週間の滞在予定を二日で切り上げて都会に戻ります。ひとは騒音が好きなのです。騒音があると落ち着きます。田舎に生まれて田舎暮らしをしている人々も、自分なりの騒音を作って生活しているのです。
騒音の誕生
例で説明すればわかりやすいでしょう。自分が自分のステレオで好きな音楽を聴いて楽しんでいる。あるいは、好みの映画を観て楽しんでいる。そんなとき、近くの集合住宅に学校から子供たちが帰ってくる。みんなそれぞれの部屋に入る代わりに騒いで遊んだり、追いかけっこをしたりするのです。子供の声はどこでも響くものです。そこで音楽を聴いていた人、または映画を観ていた人に、自分好みの音がまったく聞こえなくなります。「ああ、うるさい、迷惑、騒音だ」というアイデアが浮かぶのです。自分の家で友達と仲良く会話しているところに、消防車のサイレンが聞こえる。悪いことに近所のどこかが火事になったので、サイレンの音は瞬間では消えません。「うるさい、騒音だ」と感じることでしょう。落ち着いて会話ぐらいもできないのだと悩むことでしょう。では、騒音という言葉の誕生について語りましょう。自分好みの、自分で選んだ音がある。その音の邪魔をする音が「騒音」です。静けさを求める人にとっては、わずかな音も騒音かもしれませんが、人は決してサイレント(無音)を期待していないのです。サイレントは怖いのです。はしゃいで激しい音を出している我が子は可愛いのです。子供がいるから、家が明るくて、自分も気持ちが良いのです。しかし、隣のアパートの子供はうるさくてしょうがないのです。隣の奥さんに、「子供の躾がなってない」と文句まで言うのです。好みの音に別な音が割り込むことが、うるさい騒音なのです。
女神は知っていました
現代人は騒音に頼って、依存して生きているのに、「騒音公害が問題だ」と訴えているのです。騒音が無くなったら、どれほど怖くなるのかと、経験があるにも関わらず無視している。こんな自己矛盾に陥っていない女神がいたのです。彼女は、「音が無くなると怖くなって怯えを感じるのだ」とお釈迦さまに告げたのです。
森の音
森は、朝早くから超うるさくなるのです。森に棲む生き物たちは、力いっぱい、出したい放題、自分の声を出します。生き物のなかでも、鳥たちの声は森いっぱいに鳴り響きます。鳥の声には、他の獣たちは負けます。さまざまな鳥たちの声があるからこそ、どんな巨大な森であっても、コンサートホールのような感じになります。
人間には、鳥のように遠くまで響く声は出せません。だから、人間は聴いて皆感動する声の響きを出すために、音響設計を施したコンサートホールを作るのです。鳥は音を遮るものが何もない樹の上にとまって、囀[さえず]ります。隠れた場所を選びません。都会に棲む鳥たちも、高層マンションの屋根か電信柱のてっぺんにとまって囀るのです。
森の音は森の大きさに比例します。森が大きくなれば、森の音もでかくなります。「静かな森」とは、人間の夢に過ぎません。静かな森は存在しません。仏典に出てくる「静かな森」というフレーズは、「貪瞋痴で汚れて大騒ぎする人間の声が無いところ」という意味です。動物も鳥たちも、自分の気持ちを表現するために鳴いています。しかし、人間の脳味噌はそれを理解しないのです。商店街でものを売る人の声、客を店に呼び込む声、恋する若者の声、子供を叱る母の声、はしゃいでいる子供の声、議論したり喧嘩したりする大人の声などは、同じ人間の声なので耳に入ったら声を出した人の感情に対応した感情が自然に呼び起こされるのです。ですから、修行する比丘たちは、棲むために森を選びます。森が無音で静寂だから、ではないのです。恋人を呼ぶ鳥の声を聴いても、人間のこころに愛欲は生まれません。
森の静けさ
朝は鳥たちでうるさいが、夜だからといって静かになるわけではありません。夜も森はうるさいのです。夜行性の鳥たちの声は、人間に気味の悪い感情をかきたてます。夜は昆虫の音も激しくなります。日中も昼間になると、森が静かになります。獣たちも音を立てないし、鳥たちは昼に休むのです。耳が痛くなるほどうるさかった森が、昼、静かになると、人は恐怖感で怯えるのです。昼間に聴こえるのは、梢の葉擦れの音だけです。聴こえる音ですが、あまり耳が理解しようとしない音です。耳に音は触れますが、脳は音として認識しないのです。もしかすると、葉擦れの音には危険がないから、無視するプログラムが働いているのかもしれません。それでも、突然、枝が落ちてきたならば、びっくりするでしょう。
昼間の森も音を立てますが、人間はそれを気にしません。無視するのです。要するに、脳みそにとっては昼間の森に音がない。無音なのです。この女神は、昼間の無音の状態に恐怖を感じたようです。そこで、釈尊にこのように告げたのです。
昼、鳥たちが休んでいる時、巨大な森が鳴り響きます。
私の心に恐怖感があらわれるのです。
この女神も、静かな森を好まないようです。
ブッダの答え
お釈迦さまの答えは、いたって簡単です。
昼、鳥たちが休んでいる時、巨大な森が鳴り響きます。
私の心はこれを好みます。
ひとは恐怖を感じる環境を、解脱者が好むのです。それは愛着を抱くという意味ではなく、「落ち着きを感じる」という意味です。お釈迦さまが覚りをひらく前に、修行中の菩薩であった頃、恐怖の研究をしたのだと経典(MN4. Bhayabheravasuttaṃ)に説かれています。人々が怖くなって怯える場所を探して、そこに住んでみたのです。それから、人々が一番怖がる時間帯(真夜中)、わざと探検してみたのです。枝が落ちた程度で、孔雀が鳴いた程度のことで、人々はビビって恐怖感に身をすくませているのではないか、と思ったそうです。のちに覚りに達したお釈迦さまは、恐怖感とは如何なるものか、ということも知り尽くしたのです。
なぜ怖いの?
存在欲があるからです。死にたくない、生き続けたいと思っているからです、。死にたくないと思っている人は、蛇を見ると怖くなってビビるのです。危険を感じない限り、蛇は人間を噛みません。人間が人間を殺す回数と、蛇に噛まれて死ぬ回数は比較にもならないのです。理性的にFACTSに基づいて考えるならば、「人間ならば人間を見て怯えるべきで、蛇を見たら邪魔しなければ済む話だろう」と落ち着いたほうが良いのに、そのようにはならないのです。ひとはデータを参考にして生きる生き物ではありません。感情に導かれて生きているのです。
それでも、「命とは儚いものである」と無意識は知っています。命が儚いものであることは、客観的なデータでもあります。原始脳の指令は、「ちょっとのミスでも死ぬかもしれないので、 なんとしてでも生き延びよ」ということです。死を避けるということは、実現不可能な願望です。それを認めない生命の気持ちに、「無明」と言うのです。
怖いもの
命を脅かすものはすべて怖いのです。地震・津波・火山噴火は怖い。台風や竜巻も怖い。伝染病・癌なども怖い。火災や事故も怖い。原始時代の経験を引きずって、蛇も獣も怖いと感じる。ゴキブリが怖いという人もいますが、それはその人の感情の問題で、ゴキブリに人が殺されたケースは一つもないのです。ペストが大流行した時代はたくさんの人々が死んだのに、ネズミが怖いと思う人はほとんど無いようです。
命を守るために
守れないのは事実ですが、事実を無かったことにして命を守る努力をしなくてはいけなくなっているのです。簡単な手段は、何かに頼ることです。それも、人間の経験から導き出した結論です。急流を渡りたくなったら、ボートか筏に頼ればよいのです。人間は空を飛べませんが、現代人は飛行機に頼って空を飛びます。ですから、できないことがあればそれなりの何かに頼ればいい、という曖昧な結論が現れます。この「頼る」ということが、依存にまでエスカレートしてしまったのです。頼ることはそれほど悪くないですが、依存は病気です。依存症に罹ると、「なんのために依存するのか?」という目的すら忘れてしまうのです。
ひとは生きるために、他人に依存します。家族に依存します。土地・家・金などの財産に依存します。権力に依存します。国にも、民族にも、文化にも依存します。挙句の果てに、宗教・迷信・信仰に依存します。死なないために、生き延びるために、神に、宗教に頼ってみたが、それが依存に変わったのです。宗教は人を助けるために何もしないのに、人が宗教を助けるはめになったのです。もともとは神に守ってもらおうとしていたのですが、いまは神を守るためなら人殺しも辞さない状態になったのです。命に必要なものを揃えるため金に頼るのは構いませんが、依存症になった人々は、地球の財産を独り占めにしようとするのです。なんのためかと、その人々も分かっていないのです。そこまでは比較的わかりやすい話です。
精密な依存
頼ることと依存について、ブッダの科学から分析してみましょう。生きるとはこころの流れです。こころは瞬間瞬間、生滅するエネルギーです。こころの流れには「認識対象」が必要です。認識対象がなければ、認識は生まれません。こころに絶えず流れることができなくなります。ですから、「生きていきたい」という気持ちがある限り、認識対象に頼らなくてはいけないのです。金と同じく、頼りになるべきものが依存対象に変わってしまうのです。依存症になったら、なにがなんでも認識対象を探し求めるのです。
認識を惹き起こせる場所は六つです。眼耳鼻舌身意です。認識対象も六つです。色声香味触法です。苦労してわざわざ探し求めなくても、色声香味触法はいくらでもあります。だったら、生きられる程度で色声香味触法を使えばいいのに、依存症になったら、生きようが死のうが関係なく、色声香味触法を探し求めるのです。「ブッダの解脱の道とは、色声香味触法への依存症が二度と現れないように断つことである」と解説することもできます。表面的に人は、財産・名誉・権力などを探しているように見えますが、実際、すべての生命は色声香味触法を探しているのです。他に探せるものは一切無いのです。
色声香味触法に依存するはめになった理由は、存在に対する執着です。一切は無常であって不変の存在は成り立たないものだと、永遠の命なんかはありえないのだと、智慧で理解するならば、依存症は二度と現れないように完治するのです。
今回の経典で、主人公役を担った女神を悩ませた問題は、「音に対する依存」だったのです。
今回のポイント
- ひとは騒音に依存して生きている
- 無音静寂は人に恐怖をもたらす
- 存在欲がある人に恐怖感もある
- 煩悩が無い人だけ無音静寂に喜びを感じる