比類なき人格者
みな苦を楽だと錯覚している World vision vs Buddha’s vision
今月の巻頭偈
Nandatisuttaṃ(SN 1.12)「喜び」経(相応部 1.12) \
Nandati puttehi puttimā
Gomiko gohi tatheva nandati
Upadhīhi narassa nandanā
Na hi so nandati yo nirūpadhī
子ある者は子について喜び、
また牛のある者は牛について喜ぶ。
執着するよりどころによって、人間に喜びが起こる。
執着するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない。
Socati puttehi puttimā
Gomā gohi tatheva socati
Upadhīhi narassa socanā
Na hi so socati yo nirūpadhī
子のある者は子について憂い、
また牛のある者は牛について憂う。
執着するよりどころによって、人間に憂いが起こる。
実に、執着するよりどころのない人は、憂うることがない。
釈尊祝祭日(ウェーサーカ祭)を祝う五月になりました。皆に三宝のご加護がありますようにと祝福いたします。さらにお釈迦さまの無量無限の功徳の力によって、悩み苦しみが無くなり、幸福でしあわせに生きられるようにと祈願いたします。せっかくの機会なので、なぜシッダッタ・ゴータマという人間として生まれたお釈迦さまが、すべての生命より優れた人格者なのかと考察してみましょう。
知識人ならいくらでもいる
この世に、超知識人たちはいくらでもいるのです。その人々の能力は、いくらか社会に影響を与えるが、人間の生き方に大革命を起こすことはできないのです。みな人生を改良して、幸福に生きられるもっと良い方法を探しているのです。それはそれなりに成功しています。50年前の私たちの生き方より、いまの生き方は良い方向に発展しているのです。たまたま戦争か内戦が起きたり、自然災害が起きたりして不幸になる場合もありますが、全体的に人類は発展しているのです。この結果は、何人かの努力によるものではないのです。知識人のプランニング、政府の管理と一人ひとりの努力の結果なのです。これからも私たちは、知識人のプランニングに頼ることでしょう。しかし、大胆な革命は起きません。
ワンパターンで考える
すべての知識人は、先輩知識人たちの思考パターンに従って自分の思考を組み立てるのです。悪く言えば皆、伝統を守っているのです。科学者は自由に考えて研究するのだと表向きでは言いますが、それぞれ自分の伝統をしっかり守っています。もし、社会の既成の信仰に反対するデータを見つけても、発表する場合は社会が混乱しないように工夫するのです。人類の考えに真っ向から反対する考えがある場合、たとえそれが事実であっても、世界はその考えを捨ててしまいます。世界は考えを捨てるだけではなく、その考えを発表した人も捨てるのです。それでその人は、この世で生きられなくなります。知識人もそうでない人々も、自分の命に愛着を持っています。家族に愛着を持っています。ですから、自分に・家族に・親しい人々に迷惑になる思考・研究・生き方を避けるのです。ですから、いま世にあるすべての宗教、哲学、科学研究、政治制度、芸術などは「人生を賛嘆する」というワンパターンに嵌っているのです。
当然、この世には悲観主義者、命をネガティブに観る人々、破壊主義者などもいますが、とても数が少ないのです。それほど人類に影響を与えることはできないのです。思想家が弟子を作ったとしても、一代で終わってしまいます。ある時、集団自殺を謳う宗教組織もありました。そのような宗教は決して、世界宗教にはなりません。開祖様といっしょに潰れてしまうのです。面白いことに、集団自殺を実行した宗教組織も人生を賛嘆していたのです。その人々の言い分は、「究極の幸福に達して生きるためには、この命を絶たなくてはいけない」ということです。こうやって見てみると、皆ワンパターンですね。
本物の革命者
お釈迦さまは人類に現れた唯一本物の革命者なのです。お釈迦さまの教えは、他の宗教家、哲学者、思想家たちの考えと似ていません。世にあるワンパターンの流れに乗ることなく、思考パターンを逆転させたのです。摩訶不思議なポイントは、世界はブッダが究極的な革命を教えているのだと気づかなかったことです。人生を賛嘆する教えを、世界は認めたり、認めなかったりします。認めたとしても、時間が経つと有効性が無くなったりします。悲観主義者には、敵はいても仲間がいないのです。世界は悲観主義を認めません。みな人生を賛嘆する教えを要求しているのです。ブッダの教えは、決して人生を賛嘆しません。しかし、決して悲観主義を説きません。代わりに究極的な革命を推薦しているのです。人類にはこの教えを簡単に理解できなかったが、反対することもできなかったのです。ブッダの話を断片的に聴くと、素晴らしい、見事だ、そのとおり、当然なことだ、という反応が起きました。「間違いだ」と言える人間はいなかったのです。
お釈迦さまは、自分自身のこころに本物の革命を起こして、それからその方法を人類に語りました。その方法を実行してみた弟子たちは、皆、成功を収めたのです。それで二六〇〇年も続けて、その教えを受け継いできたのです。ブッダの教えの流れは、俗世間の執着中心的な流れに反対することも賛成することもなく、社会でなんの問題も惹き起こすことなく、連綿と続いています。歴史上、そんなことができたのはお釈迦さまだけです。ですから、お釈迦さまは比類なき優れた人格者なのです。お釈迦さまはお祝いに値する人格者なのです。釈尊の高徳を念じるだけでも、人々は幸福になります。
仏教は革命的ですか?
今月、相応部経典の有偈篇の天相応から「喜び」という意味の経典(Nandatisuttaṃ)を勉強してみましょう。この経典を読んでみると、ブッダの教えは世間のワンパターンの思考の流れに真っ向から反対していることがわかります。人類の価値観に真っ向から反対する価値観を推薦していることがわかります。
女神の発言――①家族愛
ある女神が釈尊を訪ねたのです。それから、自分の考えを釈尊の前で発表します。「Nandati puttehi puttimā 子あるものは子について喜ぶ。」これは詩の一行なので、理解するために解説が必要です。日本語で「子」と訳しているが、パーリ語を直訳すると「子」ではなく「息子」になるのです。しかし、意味は「子」でも「息子」でもないのです。「子がいる」とは、家族があることです。我が子は可愛いのです。幸せを感じるのです。我が子の幸福と将来を願って、家族はみな頑張ります。問題が起きない平和な家庭を築くために努力するのです。男に訊いてみると、「自分は家族のために頑張っている」といいます。女性に訊くと、「自分は家族の幸せのみを願って苦労しているのだ」と言います。男女とも、家族以外に生きる目的がなさそうです。現代は独身で人生を終える人々もいるが、それは世界の主流の生き方ではありません。少数派です。そこで見いだせる事実があります。ひとは家族がいるならば、幸福を感じるのだということです。ですから、人生を賛嘆するならば、幸せな家庭は欠かせない条件になります。トラブルや喧嘩ばかりの家庭で育った子供たちが精神的な問題を抱えたり、まともな社会人にならなかったりするケースも少なくありません。ですから、「幸せな家族がいることが人間にとって喜びである」というのは、わかりやすい表現です。誰もがみな認めます。世間の一般的なワンパターンの考えです。
女神の発言――②財産
「Gomiko gohi tatheva nandati また牛ある者は牛について喜ぶ。」解説が必要な詩の一行です。いまの人間なら、牛を一頭飼えと言われたら、喜ぶどころかえらい迷惑だと思うかもしれません。お釈迦さまの時代には、「牛」は財産を表現する単語でした。実際にも、牛がたくさんいる人々は豊かで、金持ち扱いされたのです。牛がいると収入がスムーズに増えたのです。田圃を耕すこと、荷物を運ぶこと、乳製品を得られること、などで豊かになるのです。ですから、この行は、「財産がある人は、財産で喜ぶ」という意味になります。皆様も安定した収入のよい仕事に就けたならば、喜ぶでしょう。家族も喜ぶでしょう。収入が無かったならば、ほかの財産も無いならば、生きることは極端に苦しくなるでしょう。病気になっても、簡単な治療でなおるのに、金がなくて治療を受けられないならば、いかに悲しいことでしょう。ですから、命を賛嘆するならば、生きる人々みなに収入があることは欠かせない条件になります。皆、賛成でしょう。それも世間のワンパターンの思考に適した考えです。
女神の発言――③執着するよりどころ
「Upadhīhi narassa nandanā 執着するよりどころによって、人間に喜びが起こる。」家族・財産などに人は執着するのです。それは楽しいことです。子供が美しくて可愛いならば、楽しいのです。子供が真面目に勉強して、すくすく成長するならば、楽しいのです。充実できる職業があるならば、楽しいのです。十分な収入が安定して入るならば、楽しいのです。ブランド品の高価な品物、高級車、立派な家などがあれば、楽しいのです。有名人が自分の友人であるならば、楽しいのです。これらすべて、執着を惹き起こすためのよりどころです。みな、生きる目的を探しているのです。生きがいを必要としているのです。何のこともない。執着するためのよりどころを探しているのです。何かに執着しなきゃ、生きられないのです。
人生を賛嘆するならば、人に執着するためのよりどころが必要です。学生は安定した仕事を目指す。若者は結婚して家庭を築くことを目指す。皆、豊かさを目指す。人生の成功を目指す。健康や長生きを目指す。人気者を目指す。平和を目指す。目指すものはいくらでもある。ひとにはいくらでも目指すものを作られる。「いろいろな目標をめざしてがんばって生きることが、幸福で明るい生き方である」というのは、皆が認めるワンパターン思考の一つです。
女神の発言――④目標がないと喜びもない
「Na hi so nandati yo nirūpadhī 執着するよりどころのない人は、実に喜ぶことがない。」生きる目的がない。何を目指して生きればいいのかわからない。生きることが面白くない。どう生きればいいかとわからない。生きがいが無い。頼る人がいない。自分に頼っている人もいない。仕事がない。収入がない。先が不安……という状況は最悪です。そのような人々が増えると、国そのものの安定も壊れる恐れがあります。とにかく、明るく生きるためには何か執着するものが必要です。何か目標が必要です。何かに挑戦しなくてはいけなくなります。ですから、詩の四行目で「執着の必然性」をうたっているのです。これも世間の考えです。反対する人々はいません。
それで、女神は世間が一致して認める幸福論を発表したのです。女神は、「もしかするとお釈迦さまも、当たり前の事実ですから、常識的な思考だから、賛成して自分を褒めてくれるだろう」と思ったかもしれません。釈尊に認められたら、それはこの上のない喜びの原因になります。しかし、お釈迦さまは比類なき革命者です。ワンパターンの世間の話には乗りません。決して、人生を賛嘆しないのです。代わりに、人生に革命を起こすことを推薦するのです。では、お釈迦さまの返答を勉強してみましょう。
釈尊のアプローチ
人々は、ものごとの一つの特色に執着して、それを派手に宣伝する傾向を持っているのです。ものごとは多面的で場合によって多次元的にもなります。何かを理解しようとするならば、そのすべての側面を理解しなくてはいけないのです。これは容易いことではありません。執着する性格であるならば、その人には無理です。単純な例で考えましょう。和食の一つである納豆は、健康に良い食べ物です。コレステロールはゼロです。糖分はわずかです。ナットウキナーゼは血液をサラサラにしてくれる。その側面だけを見て、納豆ばかり食べたら、どうなることかわかりません。なぜならば、必ず納豆には身体に悪い成分もあるはずです。他の食べ物である米、ジャガイモ、キャベツ、ほうれん草などなども、同じなのです。いいところだけハイライトして、その側面に執着すると、必ず問題が起きます。卵にはたんぱく質が豊富かもしれませんが、身体に悪い影響を与える成分もあるのです。世の中にある他のものごとも同じです。共産主義は悪の塊たる政治理論ではありません。同じく、資本主義は善の塊ではありません。すべてのものごとはこの通りです。白でもなく、黒でもないのです。だからといって、すべて灰色だと言うこともやめてほしいのです。それほど単純ではありません。なぜならば、灰色と言っても、白に近い灰色も、黒に近い灰色もあるからです。お釈迦さまのアプローチは、①現象を客観的に知る。②現象はどのように現れてどのように消えるのかと知る。③現象の長所を知る。④現象の短所を知る。⑤現象からどのように離れるのかと知る。⑥現象に依存しない方法を知る。これぐらい調べないと、ものごとを知ったことになりません。これぐらい調べないと、ものごとについて判断することも、意見を述べることもできません。ものごとについて、お釈迦さまの考えに反対することは、いまだかつて誰にもできなかったのです。なぜならば、それは客観的な事実であって、主観的で偏見に満ちた考えではないからです。お釈迦さまは、この立場で女神の発表に対するご自分の答えを述べられたのです。
お釈迦さまの答え――①家族愛
家族愛は当然、人々に喜びを与えます。異論はありません。しかし、家族愛は人々に耐えがたい悩み苦しみも与えてくれるのです。可愛い我が子が病気に罹ったケース、治療不可能で早死にしたケースを考えてください。誰も、世の中の子供が病気になることも早死にすることも気にしないのです。しかし、それが我が子に降りかかってくると、途方にくれるのです。何年経っても忘れることができないのです。日本で震災が起きて津波による大きな被害を蒙ると、たくさんの人々が亡くなったり、被害を受けたりします。しかし、悲しみに陥る場合、悩みに陥る場合、PTSDに罹る場合、対象は自分の家族です。百人も亡くなった、二百人も亡くなった、と悲しむ人はいません。我が子が流されたと悲しむ人ならば、います。ということで、家族は喜びのもとになると同時に、耐えがたい悩み、苦しみ、心配、不安のもとにもなるのです。ですから、一側面ばかりを見て人生を賛嘆したり、家族を賛嘆したりするものではないのです。女神の発表に対して、お釈迦さまは「Socati puttehi puttimā 子あるものは子について憂う」と、皆が無視する側面を示してあげるのです。
お釈迦さまの答え――②財産
財産が無ければ生きられません。その一側面だけを見て、皆、財産に執着します。財産を増やすことと守ることに必死になります。財産が貯まると威張ります。でも、その人に財産とともに強烈な不安が現れてくるのです。財産とは、わずかな手違いで無くなるものです。年収十億三千五百万円の人も、逮捕されるのです。その時点から、収入が無くなるのです。財産とは、簡単に他人に奪われるものです。洪水・地震・火事・津波などでも、消えるものです。それで耐え難い苦しみに陥らなくてはいけないのです。ひとは世界に貧困に喘ぐ人々がいることで悲しみに陥らない、悩まない、苦しまない。世界のさまざまなところで戦争が起きていることに怯えない、苦しまない。しかし、自分の財産が無くなったら、自分に住むところが無くなったら、自分が仕事をクビになったら、悩むのです。悲しむのです。苦しみに陥るのです。ですから、財産には人を苦しみに陥らせる力があるのです。お釈迦さまの答えは、「Gomā gohi tatheva socati 牛のある者は牛について憂う」です。
お釈迦さまの答え――③執着するよりどころ
俗世間では、執着するものがあればあるほど幸せだ、楽しいのだと思っているが、執着に値する、執着するよりどころになるものはすべて、人に悩み苦しみを与えるのです。ものごとの一側面だけ見るから、人々は無知なのです。一側面だけを見て、それに執着するのです。子犬を見ると、一発で可愛いと思ってしまう。それで子犬に執着して、飼うことにするのです。それから、十五年ほど犬の世話で苦労するはめになります。年取って耳が聞こえなくなり、白内障で目も見えなくなった犬の面倒をみるのはたいへんです。可愛いどころではありません。それでも、その犬が死んだら、悲しくなるのです。しかし、隣の家に住んでいる犬が死ぬことは、痛くもかゆくもないのです。その犬に対して、執着が無かったからです。ライオンを見ると、大型の猫ですから可愛く見えます。オスライオンのたてがみはカッコいいのです。ライオンとじゃれたり、ライオンの背中に乗ってみたりすることができれば、すごい楽しいことでしょう。では、あなたはライオンを飼いたいですか? かわいい側面ではなくて、怖い側面もライオンにあるのです。ご飯は美味しくて、体力を支えてくれます。しかし、ご飯を食べ過ぎると、高血圧と糖尿病に罹って、死期が早まることになります。
ご飯は犯人ではないのです。高級車、ブランドの品物、豪邸などは、苦しみを与える犯人ではないのです。その品物に対する執着が犯人なのです。高級車があることは問題ありません。しかし、ものは壊れます。事故にも遭います。他人に盗まれたりします。それも普通のことです。しかし、愛着があったら、話にならないのです。悩み苦しみに陥って、何年たっても忘れることができずに悩み続けるのです。精神的に病気になる場合もあります。ですから、お釈迦さまは「Upadhīhi narassa socanā 執着するよりどころによって人間に憂いが起こる」と説かれるのです。
お釈迦さまの答え――④執着がなければ憂いもない
四番目の項目は、生きる目標であると説明しました。だからといって、目標が無ければ憂いも無く安穏であるとは、一概に言いづらいのです。ひとが作る無数の目標は、執着が原因です。目標に達したからといって、幸福になるという保証はありません。何かの結果を目指して、行為を惹き起こすのは普通です。なんの目的も無しに、炊飯器に米と水を入れて電源のスイッチを入れません。電源のスイッチを入れたならば、ご飯という結果を期待しているのです。それが事実です。なんの目的も無く、おかしな行動をする人々もたまにいます。そういう人々は、精神病に陥っているのです。常識的な人であれば、行為に結果を期待するものです。
そういうわけで、お釈迦さまは、苦しみのもとになるから目標を持ってはいけないとは説かないのです。犯人は執着です。ですから、執着を無くすという目標を作って、努力するのです。ひとが作るどんな目標よりも、執着を無くす目標のほうが高度なのです。最高度の目標に達するためには、俗世間の人々よりも活発に努力しなくてはいけない。その目標に達した人に対して、「Na hi so socati yo nirūpadhī 実に、執着するよりどころのない人は、憂うることがない」と説かれるのです。
比類のない智慧
ブッダは、すべての生命が賛成する「命を賛嘆すること」を避けたのです。家族がいること、財産があることこそが悩み苦しみの原因になるのだと、すべての人類の生き方に対して反対の意見を述べたのです。すべての人類が執着の目標を作って、日夜を問わず努力するのです。執着で作った目標が、憂い悲しみ悩みのもとになるのだと説かれると、愚か者は「何もしなくていい。なんの目標も無いほうがいい」と勘違いして、無気力を賛嘆する暗い悲観主義者になるかもしれません。しかし、お釈迦さまは甘くないのです。人間に最高の目標を提案したのです。最高の安穏を提案したのです。究極の幸福を提案したのです。ブッダのこの教えに比類する教えは、世界にはないのです。
このように比類なき優れた人格者である釈尊が、われわれ一人ひとりの偉大なる指導者で、偉大なる師匠であると祝うことが、みなに幸福を与えてくれると思います。
今回のポイント
- 釈尊は人生を賛嘆しません
- 釈尊の教えは世間の思考の流れと逆向きです
- しかし仏教は虚無主義にはならない
- 仏教こそが究極の幸福へと案内するのです