愚か者は贅沢自慢する
富豪は不幸のもと Wealth stands against happiness
今月の巻頭偈
Nandanasuttaṃ (SN 1.11)歓喜経(相応部 1.11) \
Na te sukhaṃ pajānanti
Ye na passanti nandanaṃ
Āvāsaṃ naradevānaṃ
Tidasānaṃ yasassinaṃ
誉れ高き三十の
諸天人の住処なる
ナンダナ(歓喜の園)を見ることのない
かれらは安楽を知ることがない
Na tvaṃ bāle pajānāsi
Yathā arahataṃ vaco
Aniccā sabbasaṅkhārā
Uppādavayadhammino
Uppajjitvā nirujjhanti
Tesaṃ vūpasamo sukho
愚者よ、あなたは知ることがない
諸阿羅漢の言葉のとおりに
あらゆる行は無常なり
生じ滅する性質のもの
生じてはまた滅しゆく
その寂滅は安楽なり
贅沢自慢
みな贅沢自慢をしているわけではありません。一部の人々が、贅沢自慢するのです。贅沢を自慢できるのは、大富豪に限られます。どこかへ行きたければ、自家用ジェット機に乗るような人々のことです。しかし、その資格のない一般人も贅沢することがあります。日常生活を問題なく過ごせる人々が、悩むことなく楽しく生きられることに満足を感じるのは贅沢自慢には入りません。満足を感じると、こころが落ち着きます。満足を感じてこころが落ち着いた人々は、これから人格向上しなくてはいけないと励むのです。
贅沢自慢できる人
贅沢自慢は、満足を感じることとは違う感情です。「こんな贅沢は一般人には決してできない」「われわれは特別な人間なので、ほかの人間に想像も及ばない生き方をしている」「自分が乗る車は特注して作られたもので、世界に一台しかない」などなどのことを言う場合は、贅沢自慢です。そういう話を聴かされる一般人は落ち込みます。最新の調査によれば、地球の全人口のうち上位42人が持つ資産の総額は、下位37億人が持つそれとほぼ同額なのだそうです。ざっと計算すると、ひとりの大富豪が一億人の庶民に匹敵する財産を手にしていることになります。このような人々は、贅沢自慢にとどまらず、さらに自分の財産を増やす活動をしているのです。貧乏人や貧困にあえぐ国々を助けることではなく、「あなた方は能力がないから貧乏になっているのだ」と蔑視するのです。贅沢自慢する人々にとっては、他の人々が飢えても、人類が破滅しても、一向に構わないのです。どうすればさらに儲かるか、どんなカラクリをしたら税金を収めずに済むか、という課題で頭がいっぱいです。忙しくて暇がないのです。
一般人の反応
一般人には、社会を動かす力がないのです。一部の人々は、豊かな社会を築こうではないかと努力していますが成功はしません。政治改革、経済改革、社会制度改革などなどを考えても、成功した試しはありません。大富豪に負けるのです。落ち込む人々もいます。いくら頑張っても豊かにならないのだと悩むのです。その人々は、自分はそれなりに問題なく生きられることに喜びを感じません。なかには、怒りに狂って大胆な行動をする一群の人々もいます。破壊活動をしたからといって、テロ行為を起こしたからといって、大富豪は負けません。かえって、その行動をした人々が極悪人として裁かれるだけです。政治家には権力がありますが、彼らもまた大富豪に牛耳られています。国民のためだと嘯いて、実際は大富豪を守る法律しか作らないのです。
人類のなかで一部だけ桁違いの金持ちになる現象は、昔からあったのです。社会制度は変わっても、この経済格差は変わらないのです。共産主義は労働者の世界を謳ってはいましたが、実際に政権を握ると一部の人々だけが富を独占する結果に終わったのです。そうなると、事態はなおさら悪いのです。なぜならば、大富豪が経済力だけではなく政治権力も持つ状況になったからです。では、このような現実に対して、仏教はどのようにアプローチしたのでしょうか?
神々のエピソード
名指しで批判することは、社会の反発を招く結果になります。権力者や大富豪の攻撃を受けて、破滅に至るのが目に見えています。仏教は中道を選んで、名指しで批判することをやめ、神々のエピソードを紹介するのです。
三十三天という天界があります。四天王の上の次元にあたる、神々の王・帝釈天が住んでいる天界です。その天界に、nandana vanaという遊園地のような公園があったのです。Nandana vanaの意味は、「歓喜の園」です。地球上のどんな富豪家の贅沢も、最下層の天界の喜びにすら敵わないのです。神々には、人間の生き方が苦しみに塗れた貧困のどん底のように見えるのだそうです。このエピソードは、それよりさらに上の次元にある天界の話です。世間のいかなる富豪家も羨ましくなる、自分の贅沢を貧困に感じてしまう境地です。
ある日、神々が歓喜の園に遊びに行きました。そこで、天界の色声香味触の喜びを味わっていたのです。人間に想像できない快楽世界です。ある神が、贅沢に酔って、贅沢自慢を始めます。
神々の贅沢自慢
Na te sukhaṃ pajānanti, ye na passanti nandanaṃ;
Āvāsaṃ naradevānaṃ, tidasānaṃ yasassinaṃ.
誉れ高き三十の 諸天人の住処なる
ナンダナ(歓喜の園)を見ることのない かれらは安楽を知ることがない
わかりやすく意訳すると、「われわれ(神々)の住居である歓喜の園を見たことのない人々は、贅沢とは何かと知ることができない」ということになります。そこで、お釈迦さまは無難な態度で、大富豪が贅沢自慢する習慣を表現したのです。世の中には、桁違いの富豪家がいます。その人々は、一般人のことを蔑視して贅沢自慢をするのです。では、それに対してどのように反応すれば良いのでしょうか?
エピソードの続き
理性ある一人の神の耳に、この贅沢自慢の言葉が入ったのです。その神は、贅沢自慢の偈に対して偈で応えます。
Na tvaṃ bāle pajānāsi, yathā arahataṃ vaco;
Aniccā sabbasaṅkhārā, uppādavayadhammino;
Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.
愚者よ、あなたは知ることがない 諸阿羅漢の言葉のとおりに
あらゆる行は無常なり 生じ滅する性質のもの
生じてはまた滅しゆく その寂滅は安楽なり
意訳しましょう。「あなたがた愚か者たちは、聖者の言葉を聞いたことがない。すべての現象は無常ですよ。すべての現象は生じて滅する性質を持っているのです。本物の楽とは、生じて滅するこの流れから離れることです」。
贅沢自慢するのは愚か者
贅沢自慢する人々に対して、仏教の反応はいたって単純です。「愚か者」の一言です。その人々の話に乗る必要はないのです。負けるのは当然な結果なので、贅沢自慢する大富豪に対して攻撃をしたり、大富豪を批判したりしても意味がありません。大富豪は愚か者たちだから、勝手に自慢すればよいのです。時々、精神病にかかった人々も、「わたしは神だ」「わたしは仏だ」「わたしは王様だ」などの自慢をする場合もあるでしょう。相手は病気だから、誰もその言葉に乗らないのです。「そのとおりだ、あなたは神様だから拝みましょう」とは、誰も言わないのです。仏教は、大富豪の贅沢自慢に対して、ほぼ似たような態度を取っているのです。
真理に基づいたアプローチ
仏教の贅沢自慢に対する批判は、決して感情的なものではありません。真理の言葉を語っているのです。地球の財産の八分の一を独り占めにしたからと言って、人間は人間です。食べられる量は決まっています。豪華な金製のベッドを何台も持っているからと言っても、寝る時は一台しか使えません。ベッドが金製だからと言って、ホームレスの人より幸福に熟睡できるという保証もありません。病気になります。歳を取って、老いて死ぬのです。死ぬ時は、塵一つ分も財産を持っていけません。死後の行き先は、生前のおこないの結果によります。財産を増やすことだけに忙しかった一生でした。ひとを助けてあげる能力があったにもかかわらず、興味を持たなかったのです。生きることの悩み苦しみを実感するチャンスはなかったのです。必死になって財産を増やす人生でした。しかし、その理由に気づかなかったのです。それは、金はいくらあってもほんの僅かな手違いですべて無くなるという事実です。要するに、財産は決して「わたしのもの」にならない、ということです。
富豪家に自我の錯覚を捨てることは困難です。「生きることが苦である。ひとは何をやっても不満に悩まされる」と発見して、ブッダの説かれた真理を学ぶチャンスも無いのです。フンコロガシの世界は、糞だけで固まっています。「わたしが作った糞玉を、お前の糞玉より大きくしてやるぞ」という生き方をしているのです。隙があれば、他のフンコロガシの糞玉を奪うこともします。仏教では、財産を増やすこと以外に能がない人々をフンコロガシに例えているのです。
一般人は恵まれている
一般人にとって、生きることは大変です。強い台風が来たら、自分の棲家の屋根が飛んでしまう可能性もあります。それほど財産が無いので、新しい屋根を作ることにもかなり苦労します。おいそれと仕事も休めないのです。給料は節約して使わないと、借金するはめにもなります。必死に働かないと生きられないことも知っているのです。借金してでも子供たちに教育を受けさせますが、必ず良い結果になるという保証もありません。子育てをして、子供を社会に送り出してから、自分たちはひとりぼっちになるのです。このように、一般人はあらゆる問題を抱えて、やっと生きているだけです。「金ならいくらでもある」「病気になったら世界一の専門医のお世話になることができる」「わたしに不可能なことは何ひとつもない」などなどのイカれた感情で悩む必要もありません。だからこそ、儚い人生について、ありのままに観ることができるのです。執着を捨てやすい環境が揃っているのです。ゆえに、一般人には解脱に達するチャンスがあります。そのチャンスは富豪家にないのです。解脱に達することは、究極の幸福であり、究極の贅沢です。ですから、恵まれているのはフンコロガシの生き方をしている富豪家ではなく、一般人のほうなのです。
真理
すべての現象は無常です。現象とは、実体ではなく因縁によって一時的に成り立つものです。われわれは「自分、自分」と言っているが、自分を構成しているこの身体も、因縁によって一時的に成り立っているのです。身体は物質の法則によって変化します。「自分」という場合はほとんど、物体のことではなく、こころ・思考・感情の働きを指します。そのこころも、想像できないほどの速さで変化していくのです。ですから、実体としての自分は成り立たないのです。自分とは、瞬間に限った存在です。その真理を発見する人は、無常の現象に対して愛着も執着も捨てるのです。何にも囚われないこころを作って、究極の安穏に達するのです。本当の幸福、本当の贅沢とは、一切の執着を捨てて解脱に達することです。お釈迦さまはある日、「贅沢に生きているというならば、コーサラ国王よりも、樹の下で夜を明かす自分のほうが贅沢に生きているのだ」と説かれたこともあります。
結論をまとめます。フンコロガシを羨ましく思う必要はないのです。仏教はフンコロガシのような贅沢自慢の世界を推薦しません。その代わりに、涅槃・解脱という本物の贅沢の境地を推薦しているのです。
今回のポイント
- 贅沢自慢は大富豪の特権
- 大富豪を羨ましいと思ってはならない
- 世界はいつだって不公平です
- 財産は捨てて逝くものです
- 「生きるとは苦である」という実感は幸福をもたらす財産です
- 涅槃・解脱こそが究極の贅沢です