実らない修行と実る修行
慢を避けて気づきに励む Love of self nullifies your practice
今月の巻頭偈
Mānakāmasuttaṃ(SN 1.9)「高慢を愛する人」経(相応部1.9)
9.Sāvatthinidānaṃ.
Ekamantaṃ ṭhitā kho sā devatā
bhagavato santike imaṃ gāthaṃ abhāsi
サーワッティ因縁。
一方に立ったその神は、世尊の近くでつぎの偈を唱えた。
"Na mānakāmassa damo idhatthi,
Na monamatthi asamāhitassa;
Eko araññe viharaṃ pamatto,
Na maccudheyyassa tareyya pāra’’nti.
「高慢を愛する人には、こころの制御はできない。
沈黙がないこころには、統一はない。
放逸のまま独り森に住んでも、
死の領域を超えて、解脱(彼岸)に達することはできない。」
(釈尊いわく――)
行者に気をもむ女神
信仰する宗教に関係なく、真剣真面目に修行する求道者たちのことは、神々が心配するのです。どうせなら、毎日のように神に祈ったり供養したりしている我々のことも心配してほしいと思いますが、それについて神々は無関心のようです。ある女神が、修行者に対して関心を持つようになりました。そこで、大事なことを発見したのです。皆、命を二の次にして、修行に励んでいます。厳しい苦行もしています。行者ぶって他人の尊敬を勝ち取るような詐欺師的な行者ではなく、真剣真面目にこころを清らかにしようと励む求道者たちのことを心配していたのです。
女神が発見したのは、人々は修行するが、こころが清らかになる気配はないことでした。自分が目指す究極の境地に達する気配はありません。修行に対して真剣真面目かもしれませんが、精神的にはなんの成長もないのです。一般人の精神状態と、厳しい行に人生をすり減らす求道者の精神状態のあいだに何も差がないことを見て、この賢い女神はとても心配でたまらなくなったのです。しかし、賢い女神はそれだけに終わらせなかったのです。求道者たちが解脱に達しない原因を追究して、結論に達したのです。そして、その結論を正等覚者の前で発表したのです。これから、この女神の発言をフレーズごとに解説してみましょう。
自慢は大好き
自慢とは、仏教用語で単純に「慢māna」になります。Mānaの元の意味は、計ることです。計るためには、基準が必要です。その基準は、「私」または「自我」なのです。自我という基準で、自分を計ってみたり、他人を計ってみたりします。これは、必要に応じてたまたまおこなう行為ではなく、慢性的な持病なのです。ひとに自我意識があること自体が、問題です。悩み苦しみの元凶です。では、慢性的な持病で24時間、自と他を計るはめになったら、どうなるでしょうか? その人の精神は、堕落することはあっても向上することはないのです。
慢の種類
基本的には三種類の慢があります。①自分は他人より優れている、という高慢(atimāna)。②自分は他人と同等だ、という同等慢(sadisa māna)。③自分は他人より劣っている、という卑下慢(hīna māna)。それで他人を、自分より優れた人、同等の人、劣った人の三種類に分けるのです。それからその三種類の人間に、さらに高慢、同等慢、卑下慢を抱きます。そういうわけで、九つの慢があるのです。アビダンマピタカ(Abhidhamma piṭaka)のヴィバンガッパカラナ(Vibhaṅgappakaraṇa)では、次のように説明されています。
優れている人と自分を比較
・“Seyyassa seyyohamasmī ”ti māno,
(優れた人よりも優れている)
・“seyyassa sadisohamasmī ”ti māno,
(優れた人と等しい)
・“seyyassa hīnohamasmī ”ti māno,
(優れた人よりも劣っている) \
等しい人と自分を比較
・“sadisassa seyyohamasmī ”ti māno,
(等しい人よりも優れている)
・“sadisassa sadisohamasmī ”ti māno,
(等しい人と等しい)
・“sadisassa hīnohamasmī ”ti māno,
(等しい人よりも劣っている) \
卑しい人と自分を比較
・“hīnassa seyyohamasmī ”ti māno,
(卑しい人よりも優れている)
・“hīnassa sadisohamasmī ”ti māno,
(卑しい人と等しい)
・“hīnassa hīnohamasmī ”ti māno _
(卑しい人よりも劣っている)
自慢が好きな人に成長は皆無
女神はまず、慢の問題を発見したのです。求道者たちは、「慢病」で悩んでいたのです。真面目に形だけの修行をしているが、自分の心にある慢性的な慢病を治療していない。それなら、その人にdamaが無くなるのです。Damaとは、「こころの制御」です。女神の最初の発表は、「慢が好きな人に、こころの制御はありませんNa mānakāmassa damo idhatthi」でした。
こころの沈黙
言葉を発しないで沈黙するのはいたって簡単ですが、こころは瞬間たりとも沈黙状態になりません。こころはうるさいのです。竜巻のように妄想しています。それを、思考している、考えていると、勘違いすらしているのです。人類の役に立つことを考えているならば、それなりに善い結果が現れます。しかし、人間のあいだには平和がないのです。人々を仲良くさせることは、とても難しいことです。でも、仲たがいしようとするならば至って簡単。これが、世界の人類の本当の姿です。それもこれも皆、思考ではなく妄想ばかりしていることの結果なのです。
修行者にとっては、思考も妄想も同じことです。なぜならば、こころが様々な対象を追って走り回るからです。そうなると、こころの落ち着きが完全になくなるのです。こころを統一させることができないならば、修行の意味がないのです。様々な対象を追って走り回るこころは、決して清らかになりません。一般知識レベルを超越することは不可能です。ですから何年修行しても、精神状態は一般人とまったく同じなのです。妄想すること・思考することは、修行の成果を求める行者にとって、乗り越えられない峠になるのです。妄想・思考を克服したならば、そのこころに統一状態(samādhi)が生まれます。Samādhiのこころは、一般人の精神状態を超越しているのです。女神は二番目にこの問題を発見したので、「こころの沈黙がない人には、こころの統一もありませんNa monamatthi asamāhitassa」と発表したのです。
沈黙とは空性
仏道修行する人は、思考・妄想を抑えることに励むのです。こころの主な仕事は、思考・妄想することです。それを止めさせるのは容易いことではありません。修行者に理解しやすくするために、「こころに空[くう]の状態を作りなさい」と言わざるを得ないのです。しかし、瞑想実践しながら「空」に達することはあり得ません。だから、いかなる思考に対しても愛着・嫌悪を抱かないで、捨てることを教えるのです。それは「空性[くうしょう]」と言えるのです。修行者は、専門用語に脚を引っ張られることをしないで、自分の宿題を真剣におこなえば充分です。
沈黙とは解脱慧
修行の結果、人は覚りに達します。覚りは四段階で完成するものです。預流果に達する前に、預流道という状態があります。その状態で、こころは「空」または「沈黙」状態になるのです。この瞬間だけが、正真正銘の沈黙なのです。一来果、不還果、阿羅漢果という覚りに達するときも、それぞれのステージの「道」状態で、こころは正真正銘の沈黙になるのです。完全な覚りに達した聖者のこころは、たとえ考えることをしていても、仏教では「こころは沈黙」と言うのです。要するに、修行する求道者には思考も禁止ですが、解脱者には思考は禁止ではないのです。
こころの本来の働き
そこで、異論が成り立つでしょう。不公平だと思われるかもしれません。さらに説明します。こころの主な仕事は妄想と思考かもしれませんが、こころの基本的な仕事は「知る」だけです。純粋に「知る」だけであるならば、ありのままに知ることになるのです。一般人のこころにも当然、知る機能があります。しかし、そこで止まらないで、瞬間に「知った」情報を現象化、あるいは捏造して、初めて「知った」ことになるのです。我々には花が見えるが、その現象があらわれるために眼に触れて感じたデータそのものを知らないのです。そのデータに気づかないのです。一般人の思考・妄想とは、捏造した概念を感情の波に乗せて回転させることです。
解脱を目指して修行する人々は思考・妄想を戒めますが、六根に情報が触れることを遮断しません。情報が捏造になることを戒める努力をするのです。一般常識レベルでは決して成功しないが、真面目に修行する人のこころは、その一般常識レベルを超えてしまいます。統一状態に達するのです。そこで初めて、捏造しないで情報を「知る」ことが可能になるのです。それが、真理を発見し解脱に達する入り口です。今日の話の主役である女神も、このことをよく知っていたのです。阿羅漢に達した聖者は、すべてのハードルを超えて成功しています。五根に触れるデータを「知る」だけのレベルに留めることも、俗世間では知るデータをどのように捏造するのかということも、知っているのです。思考する場合も、捏造したデータを回転させることをしません。意にふれるデータを客観的に正しく考えることができるのです。煩悩が無いから、思考に決して汚れが入らないのです。聖者の思考は、他人の役に立つものだけです。思考するべき課題がなければ、沈黙に戻ることができます。というわけで、聖者は妄想しないのですが、必要に応じて、完璧に正しい思考はするのです。
放逸
パーリ語のpamādaは「怠ける」という意味でも使いますが、用語として使う場合は、「現実に気づかない(放逸)」という意味になります。眼の前の現実に気づかない場合は、その人のこころが現実離れの何かを思考・妄想しているのです。放逸の反対語は、「気づきsati」です。もし修行者が精神的な上達を期待しているならば、放逸は猛毒になります。気づきこそが、こころを成長させる唯一の手段なのです。
女神は三番目に、このポイントを発見したのです。森のなかで修行する求道者たちは、不放逸(気づきsati)を実践していなかったのです。それなら、思考・妄想のアリジゴクか脱出することはあり得ません。真面目に修行しているかもしれないが、虚しい結果になるのです。空に絵を描こうとしているようなものです。ですから、女神は「独りで森に住んでいても放逸でいるならば、死の領域を乗り越えることは不可能であるEko araññe viharaṃ pamatto,na maccudheyyassa tareyya pāraṃ」と発表するのです。
ヴィパッサナー実践をする方々に、厳しく「実況中継」を課していることは、皆様方も知っているでしょう。「せっかく瞑想しようと思ったのに、実況中継とはなんなのか? 瞑想にならないのではないか?」という疑問も起きたことでしょう。実況中継とは、いまの瞬間に気づくための手段です。この方法でなければ、いまの瞬間に気づくことができなくなるのです。ブッダの瞑想を実践したいと思うならば、皆、気づき・実況中継こそが入り口であると理解しなくてはいけないのです。気づきがなければ、こころの成長も、解脱も成り立たない。今月の主役である女神も、それをよくわかっていたのです。
ブッダの返答
女神は質問しに来たわけではなく、自分の発見を正等覚者の前で発表したのです。お釈迦さまは、女神の発表はそのとおりであると認めます。お釈迦さまにあえて付け加えることはありませんでした。その代わりに、偉大なる指導者として修行者に必要なアドヴァイスをなさったのです。
「修行者は慢を捨てて、こころを統一するのです(Mānaṃ pahāya susamāhitatto)」。思考・妄想を制御しようとするならば、捏造しないことに励まなくてはいけません。そのためには、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法に執着しないで放っておく訓練が必要です。それでお釈迦さまは、「こころを正しく活用して、すべての事柄に対して無執着状態を作るのだ(Sucetaso sabbadhi vippamutto)」と説きます。要するに、気づきを実践しなさい、という意味です。「そのように不放逸を行う人が、独りで森に住んで死の領域を乗り越えるのだ(Eko araññe viharaṃ appamatto,sa maccudheyyassa tareyya pāraṃ)」と説くのです。
気づきsatiこそが、こころを清らかにする唯一の道です。私たちは、それを実況中継という手段で実践しています。人格向上も、こころを清らかにすることも、一切の煩悩を無くして解脱に達することも、気づきの実践で実現できるのです。
今回のポイント
- 慢は慢性疾患
- 思考・妄想は成長の障害
- 言葉の沈黙よりもこころの沈黙が大事
- 気づきは解脱への門