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あなたは寝て夢のなかに生きている

こころが目覚める方法 Life in the self-created dream world

今月の巻頭偈

jāgarasuttaṃ (SN 1.6)
覚醒経(相応部 1.6) \

Kati jāgarataṃ suttā Kati suttesu jāgarā
Katīhi rajamādeti Katīhi parisujjhati
Pañca jāgarataṃ suttā Pañca suttesu jāgarā
Pañcahi rajamādeti Pañcahi parisujjhati

「目覚めているとき、いくつが眠り
眠っているとき、いくつが目覚める
いくつによって、垢に触れ
いくつによって、浄らかになる」
「目覚めているとき、五つが眠り
眠っているとき、五つが目覚める
五つによって、垢に触れ
五つによって、浄められる」

和訳 片山一良
『パーリ仏典 第三期1相応部(サンユッタニカーヤ)
有偈篇I』大蔵出版より

寝ている? 起きている?

仏道において、「寝ているか、起きているか」ということは大事なテーマです。俗世間では、よく寝て疲れをとって、起きて元気に頑張れば充分です。プログラムは単純です。起きて仕事をしたり勉強したりすると、心身ともに疲れます。それでよく寝て、心身の疲れを取るのです。また起きて、仕事して、疲れるのです。限りなく、その循環を回転するのです。あまりにも単純でしょう。

しかし、俗世間の人々は、自分たちの人生は単純すぎだと言われたら、機嫌が悪くなるはずです。なぜならば、寝ても疲れが取れません。起きて仕事をしても、希望どおりに仕事が進みません。その結果、必要以上に疲れます。夜、寝ようとしても、限度を超えて疲れているから、なかなか寝つかれないのです。寝ても、激しい夢の流れでこころに休む暇がありません。熟睡する方法、疲れを取る方法、ストレス発散する方法などなど、考えたり研究したりして、なおさら疲れます。なぜならば、研究者が提案する方法は、一つも約束どおりの結果をもたらさないからです。俗世間は、単純循環の生き方をしているのですが、それすらうまく回っていません。仏教的によく言う、「楽を求めて苦を増す」生き方なのです。

寝ている人

これから、仏教の考えを理解しましょう。まず、寝ている人を発見しましょう。睡眠中の人は、自分の周りに何が起きているのかとわからないのです。周りのことが何もわからないと言えば、死人です。しかし、睡眠中の人は死人ではないから、ゾンビにしておきましょう。ポイントをわかりやすくするために、面白くして書きますので、非難しているのだと思わないでほしいのです。仏教から見れば、世間の人間はみなゾンビなのです。ゾンビって怖いでしょ? 人間も怖いのです。なにをやるのかわからないのです。ゾンビの好物は脳味噌です。世間の人々と関わってみてください。あなたの脳が派手に壊れます。政治の話、会社の話、金儲けの話、自慢話、ブランドの品物の話、コンサートや映画の話、友人の噂話などなどを聞かされますし、その話に無理にでも乗せられるのです。それらの話を聴くと、あなたの心が怒り・嫉妬・憎しみ・傲慢・落ち込み・見栄などで汚染されて、壊れます。ですから、話を省略すると、世間の人々とつきあうことで、脳味噌が食べられてしまうのです。

寝ている人とは、現実を知らない人なのです。あなたのこころに怒りが現れたら、あなたに外の世界が見えなくなります。あなたは自分の感情の虜になります。身体は動いているかもしれませんが、あなたのこころは悪夢を見ているのです。欲が現れても同じことです。デパートにあった服を見て、気に入ったとしましょう。欲が現れたのです。服には、あなたのこころに欲を作ってやろうという意図はまったく無かったのです。服はただの物質です。あなたに、その物質が見えなかったのです。その代わりに、あなたは自分のこころのなかにあった欲の感情を惹き起こしたのです。ということは、欲が現れる人も、寝ているのです。この話は、憎しみ、傲慢、見栄、落ち込み、などなどの他の感情についても同じなのです。ここで、結論が見えてきました。感情(煩悩)がある人は、起きていても寝ているのです。客観的に現実を知らないのです。要するに、こころに煩悩がある限り、人はゾンビです。

起きている人

起きている人とは、煩悩・感情の虜になっていない人のことです。眼耳鼻舌身意が正しく活動しているのです。見えるものをありのままに見る。自分の感情を対象に被せないのです。音をありのままに聴く。自分の感情を音に被せないのです。鼻に入る香をありのままにかぐ。自分の感情を香に被せないのです。舌に触れる味をありのままに味わう。自分の感情を味に被せないのです。身体に触れるものをありのままに感じる。自分の感情を触れるものに被せないのです。こころに触れる概念をありのままに感じる。自分の感情を概念に被せないのです。ということは、しっかりと起きて生きているのです。流されて生きているゾンビではないのです。

感情がある人々は、起きていても、激しく活動していても、寝ているのです。感情の虜になっていない人は、起きて活動しているときも、寝て休んでいるときも、起きているのです。寝るということは、俗世間の話です。聖者の世界には、寝るという単語はないのです。なぜならば、たとえ身体を休ませているときでも、こころがものごとをありのままに認識するか、空[くう]にしているか、どちらかだからです。

女神の問い

睡眠について、これまで書いたアイデアに興味を持っていた女神がいたのです。彼女にとっても、これは面白い概念だと思えたに違いありません。だから、釈尊にこのように尋ねたのです。

Kati jāgarataṃ suttā
Kati suttesu jāgarā
Katīhi rajamādeti
Katīhi parisujjhati
起きていても寝ていると言えるものはいくつあるのでしょうか?
寝ていても起きていると言えるものはいくつあるのでしょうか?
こころを汚すものはいくつあるのでしょうか?
こころを清らかにするものはいくつあるのでしょうか?

起きていても寝ている人がいる、寝ていても目覚めている人がいる、というブッダの教えがベースにあったので、女神はこのように質問したのです。女神は、生命をゾンビにさせる条件と、ゾンビが目覚めた人間になる条件を明確に知りたかったようです。お釈迦さまが、質問の言葉に合わせて答えを出します。

Pañca jāgarataṃ suttā
Pañca suttesu jāgarā
Pañcahi rajamādeti
Pañcahi parisujjhati
起きていても五つの事柄が寝ている
寝ていても五つの事柄が起きている
五つの事柄でこころが汚れる
五つの事柄でこころが清らかになる

俗人をゾンビと言う理由

解説なしには、女神の質問もお釈迦さまの返事も理解できないと思います。俗世間の生命のこころには、五つの制約が入っているので、起きて活動していても寝ている状態になるのです。五蓋(pañca nīvaraṇa)という単語は、皆様よく知っていると思います。こころが目覚めないように、成長しないように、清らかにならないように、邪魔をしている、障害になっている、五つの制約なのです。

① kāmacchanda欲蓋
眼耳鼻舌身に触れる色声香味触に依存することです。それが無ければ命が成り立たないと思っているのです。われわれは、色声香味触ばかり探し求めています。しかし、客観的に認識することすらしないのです。自分の感情の虜になって、色声香味触に自分の感情を被せます。それで知ったかぶりをしているのです。これがこころの成長には障害なのです。

② byāpāda瞋恚蓋
自分の眼耳鼻舌身に触れる色声香味触が、自分の感情で決めたとおりにならない場合、こころが激しい対立する感情をつくるのです。要するに、色声香味触を認識するのではなく、必死になって拒絶しようとしているのです。激しい睡眠状態です。ふつう、怒りだと理解するが、微妙な働きです。無知な人はまず、自分が見たい・聴きたい・嗅ぎたい・味わいたい・触れたいものを、こころのなかで設定します。外の世界を知らないから、自分勝手に設定プログラムをつくるのです。それから、「世界は自分の設定どおりにあるものだ」と思って、眼耳鼻舌身で触れてみる。入るデータは、自分が前もってプリインストールしたプログラムに全く合わなくなります。それで外の世界を排除する、拒絶する感情を惹き起こすのです。入るデータを認識していないのです。仏道を実践する人は、世は自分好みに合わせて成り立つものではないと知っています。一般人にはそれができなくて、世間が自分好みに合わせて回るものだと思っているのです。その気持ちは、こころの成長には障害です。

③ thīna-middha惛沈・睡眠
これはわかりやすい障害です。具体的に現れる眠気とダルさです。眠気があると、色声香味触を認識したくないのです。寝たいのです。肉体がダルくなると、認識したくても上手く行きません。これなら、起きていても居眠りする状況になることはわかりやすいのです。ここまでは皆にわかるところです。さらに続きがあります。

生命のこころは、寝ることが好きなのです。さまざまな情報を認識しようとすると、ただしく認識しないのでこころが混乱して悩み苦しみに陥ります。怒り嫉妬などの感情が現れて、クタクタに疲れるのです。何もしないで寝たほうが楽なのです。ですから、こころに惛沈という煩悩がこびりついているのです。これがあると、外の世界の情報をありのままには認識したくはないのです。生命の肉体は、苦が管理しています。苦があるから呼吸する。苦があるから食べる。苦があるから身体を動かす。苦があるから身体を休める。座って苦を感じると、立つ。しかし、立っていると苦を感じる。それなら、歩くか、また座るかしなくてはいけない。苦があるから、息を吸う。息を吸ったら苦が現れるから、吐く。生きることで、苦が形を変えながら循環するだけです。要するに、肉体には安らぎはないのです。つねにダルいのです。寝たいという感情を持つこころと、つねにダルいという肉体を持っていると、生命には進化が無いのです。

④ uddhacca-kukkucca掉挙・後悔
この二つは、こころの特色なので、別々に説明します。まずはuddhacca掉挙です。われわれは、ものごとを認識するとき、いい加減に認識します。集中して徹底的に真剣に真面目に認識するつもりは元々無いのです。目に入ったら見る、耳に入ったら聴く、程度の仕事になります。たとえば、眼には色しか情報として入りません。これは、集中して真剣に眼の働きを観察すると発見する事実です。しかし、人々には山、川、谷、花、人々、建物などなどが見えています。情報をいい加減に取って、こころの中で現象化するからです。自分の、自分が作った世界を認識しているのです。ありのままの世界は、まったく知らないままです。いい加減で無責任に認識を流してしまう性格が、こころにこびりついているのです。

俗世間的な解説もあります。それはこころが混乱して、興奮している状態です。そんなときは何もできないでしょう。喋れる人であっても、興奮すると喋れない。歌える人であっても、興奮して混乱すると歌えない。それぐらいのことは誰でも知っていると思います。それはuddhacca掉挙の俗世間バージョンです。最初に説明したのは、仏教の真理のバージョンです。

次に、kukkucca後悔を解説します。まず、俗世間的なバージョンです。やったこと、やらなかったことを後悔する。失敗したことを思い出しては後悔する。要するに、過去の失敗・過ちという泥の沼に嵌っているのです。それなら、現実の世界で生きていないことになります。死んだ過去を背負っているのです。

それから、真理のバージョンです。欲蓋、瞋恚蓋などなどがあるから、眼耳鼻舌身は正しく活動していないのです。認識するものは自分の感情を被せた情報です。事実ではありません。われわれは「知ってるつもり」で生きているが、知ると思う情報すべては、そのとおりではないのです。すべて間違い、逆さまの認識なのです。あるものは無いと、無いものはあると、誤知で生きているのです。少々、時間が経つと、前に知った情報が間違いであったと気づきます。そういうことで、すべての生命に微妙なレベルで働く後悔があるのです。

⑤ vicikicchā疑蓋
疑もこころに本能としてある障害です。まず、俗世間的なバージョン。なんであろうとも、調べようとしないで否定して、認めたくはない性格です。本当か否かを調べる勇気が無いのです。楽チンで、怠けで、なんでも疑ってしまうのです。その人には、この世の中で平和には生きられません。また、俗世間的な知識すら増えないのです。

一方で、「証拠が揃わないと認めない」という理性的な疑もあるのです。その人々は、努力するのです。何ひとつも鵜呑みにしないで、自分で努力して真偽を調べるのです。この理性的な疑は、成長を求める人間に必要な性格です。決して、障害にはなりません。なぜならば、理性的な疑を持っている人は、証拠が揃った情報なら認められるように、こころの柔軟性を保っているからです。ですから、愚か者の疑と、理性的な疑という二つがあることを理解しましょう。

次に、真理のバージョンです。俗世間の人は、眼耳鼻舌身意に入る色声香味触法というデータをありのままには認識しないのです。自分の感情を先にして、見たい聴きたいなどのものを予め設定しているのです。世間を自分が予め設定したとおりに認識できれば、楽しくなります。情報がその設定と反する場合は、嫌な気持ちになるのです。具体的な話に入りましょう。ひとが花を見る。気持ちよくなります。目に入った情報が、予め設定したプログラムに合致したからです。「花が見えた」のではなく、入った情報から「花」という現象を作っただけです。その現象が、予め作った設定に合致したのです。それで、その人は「花はキレイ」という見をつくります。その見に「正しいのだ、事実だ、真理だ」と思って執着するのです。また、別な日に、以前と似た花を見たとします。このときは、予め設定したプログラムに合致しなかったのです。すると、「なんだ、この花はつまらない」という見になるのです。そこで、疑が働きだします。「○○の花はキレイですか? つまらないのですか? ホントはどういうことですか?」などなどの曖昧さがこころに現れるのです。ですから、俗世間では、最終的に正しい見(正見)は何一つについても起きません。こころはいつでも、曖昧な、中途半端な、「よくわからない」状態でいるのです。

真理をありのままに知らない限り、この状態は無くなりません。「世界は有限か、無限か」「死後自分がいるか、いないか」「行為に結果があるか、ないか」などなど、限り無い疑の群に悩んでいるのです。しかし、証拠を探して、真理を発見する能力すら無いのです。その理由は、認識するとき、情報に自分の感情を被せるからです。ここで、正しい答えを出しましょう。すべての現象は瞬間的です。瞬間の現象も、因縁があって起きて、因縁が変わると瞬時に消えるのです。仏教で「因果法則」と言っているものです。因果法則を発見しない限り、こころに疑があるのです。

五蓋の代わりに五根

五蓋を破る能力を五根と言います。Saddhā信、viriya精進、sati気づき(念)、samādhi定、pañña智慧という五つの能力(indriya,根)です。今回は説明を省略します。五蓋と五根は対立的である、と理解しましょう。こころに、五蓋と五根は同居しません。だから、五蓋がある人のこころには、五根が機能しないで寝ています。五根があるこころには、五蓋が機能しないで寝ているのです。

こころの汚れと清め

五蓋が活動しているこころは、つねに汚れているのです。ゾンビ生活しなくてはいけないのです。ものごとをありのままに観察しようとするならば、五根を育てる必要があります。五根を育てようとすると、五蓋が機能停止するので、こころが清らかな状態になっていくのです。五根をしっかり育てると、一切の現象の因果法則を発見するので、感情は一欠片もなく消えてしまいます。実践者は、ゾンビ状態から目覚め、解脱に達するのです。寝ていても五蓋は無いので、解脱者は「目覚めた人」と言うのです。

今回のポイント

  • 俗世間はつねに寝ている
  • 寝ていてもこころに安らぎはない
  • 俗人は世が希望どおりに回ると思う
  • 予め設定したプログラムで人はものごとを認識する
  • 五蓋はこころの成長を妨げる
  • 聖者はつねに目覚めている
© Japan Theravada Buddhist Association.