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自由への道

人は束縛されていることに気づかない Breaking the shackles of mind

今月の巻頭偈

Katichindasuttaṃ(SN 1.5)
「どれだけを断つべきか」経(相応部 1.5)\

Kati chinde kati jahe
Kati cuttari bhāvaye
Kati saṅgātigo bhikkhu
Oghatiṇṇoti vuccati
Pañca chinde pañca jahe
Pañca cuttari bhāvaye
Pañca saṅgātigo bhikkhu
Oghatiṇṇoti vuccati

どれだけを断つべきか? どれだけを捨てるべきか?
その上にどれだけを修めるべきか?
どれだけの束縛を超えたならば、修行僧は、
〈激流を渡った者〉と呼ばれるのであるか?

五つを断て 五つを捨てよ
さらに五つを修めよ
五つの執著を超えた修行僧は、
〈激流を渡った者〉と呼ばれる

和訳 中村元『ブッダ 神々との対話』岩波文庫より ※一部省略

命の価値

俗世間の人々は、苦を楽しんで生きています。しかし、そのことに気づかないのです。「生きることは素晴らしい。人は必死に頑張って人生に成功すべきだ。豊かになるべきだ。大物になるべきだ。命には何よりも価値がある。苦労してでも明るい人生を築くべきだ……」。これらは世間に生きる人々の謳い文句です。昔から言われているから、子供の頃からこれらの言葉で洗脳されているから、何も疑いを持たずそのまま信じて生活しているのです。たまに他人にその理由を訊いても、帰ってくるのは決まって「皆、そう言っているから。世間の常識だから」という答えです。シンプルな質問によって、この答えが成り立たないと発見することができます。

「人類は皆、すべて知っているのだろうか? 命に尊い価値があるという人々は、客観的にそれを発見しているのだろうか? 命は尊いと証明することができるのだろうか? 自分の先輩たちは〈人生を成功させるべき〉と言うが、その先輩たちは皆、人生に成功しているのだろうか? 人生を成功させるため、幸福に達するため、必死で苦労する必要があるのだろうか?〈苦労して、努力して、真剣まじめに頑張って、人生を成功させなくてはいけない〉というのは、そのままだったら人生は最悪最低なしろものだからではないのか? そうだと認めるならば、〈命は尊い〉という言葉は成り立たないのではなかろうか?」これらは、決して難しい質問ではありません。なぜならば時々、子供たちからもこの種の質問を投げかけられることがあるからです。洗脳されたままで、ロボットのように生きる大人たちにとっては、こうした質問は愚問に感じられるでしょう。

人間に限らず、すべての生命は「何かを」探しているのです。しかし、「それは何なのか?」と訊いてみてもよくわからない。わからないものを探しても、見つかるはずがありません。でも、何か欠けていることだけは感じています。何かが欠けていると、何かが無くなっていると、何かが必要になっていると、精神的に不安になります。イライラします。落ち着きが無くなります。怯えます。だから、なんとかしなくてはいけないのです。

暗闇で手探りする

「食べるものがあれば幸せ。お金があれば幸せ。勉強ができれば幸せ。健康であれば幸せ。いい仕事に就ければ幸せ。財産があれば幸せ。マイホームがあれば幸せ。ブランドの服があれば幸せ。家族がいれば幸せ。子供がいれば幸せ。皆に好かれるならば幸せ。人気者になれれば幸せ……」。このリストには終わりがないのです。反論はいたってシンプルです。「ほんとうに○○があれば幸せ? あなたはマジなの?」だけです。たとえば、日本では食べるものが溢れています。残念ながら、誰も幸せを感じていないのです。金があるのに不幸な人間もいる。家族が自分の人生を苦しませるケースもある。子供のせいで地獄の苦しみを味わう人々もいる。よい仕事に就けたが、ストレス・過労で病気になったり早死したりする人もいる。延いて言えば、人々は暗闇で幸福を手探りしているだけです。ひとつとして明確な証拠は持っていないのです。

人参を追い求めて

ひとが考える幸福は、「明日」手に入るものです。決して「今日」ではないのです。今日の楽しみといえば、酒を飲んで酔っ払うか、麻雀・ゲームなどに耽るか、やるべきこと・仕事などをサボってふざけるか、です。明日の幸福を目指す人は、今日は苦労を惜しまず頑張るのです。今日の楽しみに耽る人は、自己破壊という結果を受けます。この二つの生き方から、どちらを選びましょうか? 明日の幸福を目指す人は、長生きするかも知れませんが、死ぬまで幸福になりません。今日の楽しみに耽る人は、間もない内に自己破壊に陥ります。まとめてみると、どう生きようとしても人生は虚しいものです。洗脳されて生きている人間が、ただこの事実に気づかないだけです。

苦を楽しむ

幸福を探し求めて生きる人生に、大きな矛盾があることに気づいたでしょう。ずるい解決方法があります。「明日の幸福のために頑張れば幸福に達する」という保証はありません。だから、「今日、苦しんで、頑張って、競争して生きることが楽しい」と思うことにするのです。満員電車で通勤すること、会社で仲間同士ライバル意識を持って競争すること、子育てがうまく行かないこと、欲しいものがいっぱいあるのに収入が足らなくて買えないこと、などなどを「楽しい」と思ってみてはいかがでしょうか? 探し求めている幸福はどういうものかと、結局は明確に知らないので、幸福に達しても気づかない可能性があります。「幸福・成功は明日にある」と洗脳されているのだから、いま幸福でいることに気づくはずも無いのです。これはずるい解決策です。

苦がつくる楽の幻想

「ご飯が美味しい」と幸福を感じるためには、空腹という苦しみが必要です。食べ終わったら、今度は満腹が苦に変わります。水が美味しいのは、喉がカラカラに渇いている時です。病気で苦しんでいる時は、手当をしてくれる医者や看護師が神のように感じられます。億万長者に一万円をあげたら「侮辱するのか」とキレられるかも知れませんが、貧困で二日も食事を摂れなくて苦しんでいる人に一万円あげたら、宝くじが当たったような気分で喜んでくれるでしょう。歩き疲れている人には、座ることが楽しみです。長い時間座って身体を痛めている人には、散歩することが楽しみを与えてくれます。夏に外回りの仕事で熱中症になりかけた人には、クーラーの付いた部屋こそが幸福でしょう。乗った飛行機がフライト中に故障したと仮定しましょう。急激に高度が下がっていきます。その時、自分はどんな気持ちでしょうか? 気が狂うほどの恐怖感にさいなまれるはずです。パイロットは高速道路でも見つけて何とか飛行機を不時着させます。主翼が折れて吹き飛んでも、機体の車輪は道路に着地します。その瞬間、どれくらい幸福を感じますか? 狂ったような感じで、神様に感謝したくなるでしょう。

誤魔化しは止めましょう。苦が無ければ、楽は無いのです。我々が楽・幸福だと言い張っている幻覚とは、単純に現実にある苦が変わるだけの話です。病気でもないのに、医者が薬を処方したり、看護師が注射したりし始めたら、怖くて逃げたくなるでしょう。食べ過ぎで消化不良に苦しんでいる時、ディナーパーティーに招待されるはめになったら、楽しいどころか拷問される気分になるのではないでしょうか? 現金の札束を手に入れたら自慢まじりの幸福感をおぼえるかも知れませんが、治安の悪い裏道を歩く時は怯えて死にそうにならないしょうか? 子宝に恵まれて幸福三昧に生きているあなたが、突然、医者から「お子さんが白血病に罹りました」と宣告されたらどんな気分でしょうか? あの幸福感はどこに消えるのでしょうか? 高収入のやさしい夫がいるとしましょう。奥さんは「自分は恵まれているのだ」と幸せを感じます。しかし突然、その男が他の女と懇ろになってしまう。その情報が耳に入ったら、奥さんは幸せを感じますか?

無知で、感情におぼれて、獣のように生きるのではなく、理性で現実を調べてみてください。我々が幸福だと思うすべての現象は、我々に最大の悩み苦しみ不安を与えるのです。そもそも苦しみに陥っていないならば、さまざまなものから一時的な楽を感じることもできないのです。世間が幸福だと謳っているものは、苦がつくる楽という幻想に過ぎないのです。前に、ずるい生き方として、「苦を楽しんでみたらいかがでしょうか?」と提案しました。ここで、本当のことを発表します。ひとは苦を楽だと真剣に勘違いして、生きることに無我夢中に執着しているのです。

喉が渇いた人には、水が楽を与えます。苦と対照的に楽があるのです。対象が代わったら、楽が苦になります。川に落ちて溺れている人には、それがたとえ日本の名水の川であっても、水を飲んで楽しむことはできません。だから、世間で言う対照的な楽も、本当は楽ではなく「苦の別バージョン」に過ぎないのです。真理の立場から言えば、生きることには楽・幸福は現実的に存在しないのです。探しても無駄です。

それでも生きていきたい

「生きることは苦以外なにものでもない」と言われても、生きていきたいのです。生きることに挑戦したいのです。自分では気づきかないが、わたしたちに何か問題があるのです。「生きることは無価値で虚しいものである」と客観的に証明してあげても、「この悪循環から脱出するためにどうすればよいのか?」と訊きたくはない。「とは言っても、生きることに頑張らなくては」と、もとの状況に戻るのです。子供が死んで、地獄のような悲しみに陥って、悩んで苦しんで落ち込んでいる若い女性に、まわりが「あなたはまだ若いから、もう一人子供をつくってください」と勧めます。女性のほうも、その話に乗ってしまうのです。ひとりの子供に執着して苦しむはめになったことを、何としてでも忘れたいからです。そこで、もうひとり子供を産んだからといって幸福になれるでしょうか? なぜ人間はここまで無知なのでしょうか? 人間にあるこの問題の正体は何なのでしょうか?

執着

生命は生きることに執着しているのです。束縛されているのです。奴隷をイメージしてください。足に鎖をつけられ、主人の命令で働かなくてはいけない。八時間労働ではなく、主人の気の向くままに働かなくてはいけない。病気になっても、主人は治療を施すどころか鞭で打って仕事をさせます。奴隷は死なない程度に食事を摂れるが、それも自分で材料を探して、調理して食べなくてはいけない。主人に作ってあげる食事に手を出すと、また鞭で打たれます。なんとかして、奴隷が逃げたとしましょう。もし誰かが逃亡奴隷を見つけたら、元の主人に戻してあげるのです。奴隷に選択の自由はありません。言われるままに働くだけです。束縛とは、このようなものです。いくら悩み苦しみに遭遇しても、次から次へと不幸が押し寄せても、生きていきたいのです。不幸になりませんようにと希望するだけです。束縛・執着がこころにある限り、人はいろんなものを希望し、いろんなものを期待し続けます。そのために、お祈りをしたり、災難除けの御札を貼ったり、開運グッズを買いまくって身につけたり、または部屋に飾ったり、占い師のお世話になったりするのです。

執着とは酷いものです。いくら苦しくなっても、「生きろ、生きろ」と執着が命令するのです。死刑の確定した囚人がいるとしましょう。聴いた話によると、死刑執行の前日、死刑囚は「食べたいものは何か?」と問われるそうです。必ず、その食べ物が死刑囚に与えられます。食べ終わったら自分が殺されるのに、死刑囚は何をやっているのでしょうか? 執着にとっては、死は関係ないのです。ただ、「生きろ、生きろ」と命令するだけです。ひとは死んでも執着の命令で新たな生をつくります。それでも、生きている自分 好みの来生はつくれないのです。来生をつくるのは、人の好みではなく業なのです。結局は、人が生まれて死ぬまで生きてはいるが、自分の好みだけは通じないのです。死後も来生をつくりますが、そのときも業が勝手に来生をつくるのです。命はそれほどみじめなのに、「生きていきたい」という執着は無くならないのです。ですから、生きるという問題の答えは明白です。執着を根絶することです。

女神の問い

今回の経典に登場する女神は、「生命に束縛があるから輪廻転生して苦しむのだ」と、よく理解していたのです。しかし、束縛のことは人間だけではなく神々にもわからないのです。束縛されている事実を発見して、その束縛の姿を明確に知らなければ、根絶することはできません。だから、女神は次のようにお釈迦さまに尋ねたのです。

「どれだけを断つべきか? どれだけを捨てるべきか? その上にどれだけを修めるべきか? どれだけの束縛を超えたならば、修行僧は、〈激流を渡った者〉と呼ばれるのであるか?」

完全に解脱に達するために、どれぐらい束縛を断って、それからどのような能力を身につければよろしいのか、という明確な問いです。

釈尊の答え

「五つを断て。五つを捨てよ。さらに五つを修めよ。五つの執著を超えた修行僧は、〈激流を渡った者〉と呼ばれる。」

釈尊の答えは、質問者の言葉にぴったり当てはまるようになっていますが、一般人には何を言っているのかとさっぱりわからないでしょう。これから解説します。十種類の束縛があると説かれています。わたしは一言で「存在欲」とまとめて喋りますが、実際は十種類の束縛がひと束になっているのです。仏道実践の過程で、この束縛の束を四回斬るのです。四回目で完全に切断されます。ゆえに、解脱には預流果・一来果・不還果・阿羅漢果という四段階があるのです。束縛の束をパーリ語でdasa saṁyojanāni 十結[じっけつ]と言います。これをorambhāgiya-saṃyojana 五下分結[ごげぶんけつ]とuddhambhāgiya saṃyojana 五上分結[ごじょうぶんけつ]の二種類に分けています。五下分結とは、sakkāya-diṭṭhi有身見、vicikicchā疑、sīlabbata-parāmāsa戒禁取、kāma-rāga貪欲、paṭigha瞋恚です。五上分結はrūpa-rāga色貪、arūpa-rāga無色貪、māna慢、uddhacca掉挙、avijjā無明になります。

五つを断つ

釈尊が「断ちなさい」と仰っている束縛とは五下分結です。断った人は不還果の覚りに達するのです。実体として変わらない自分がいると誤解して、自分に執着することがsakkāya-diṭṭhi有身見です。「ものごとは因縁によって生じて、因縁によって消えるのだ」という真理を知らないでいる限り、「生きるとはこうではないか、ああではないか」と推測するだけではっきりした答えがありません。その状態にvicikicchā疑と言います。「祈り、断食、苦行などなどさまざまな仕来り・習慣・行をおこなうことで幸福になるのだ」という錯覚がsīlabbata-parāmāsa戒禁取です。観察瞑想を実践することで、修行者はこの三つの執着(束縛)を断つのです。預流果になって、聖者の仲間入りをします。しかし、まだ自分の身体に依存が残っています。具体的には、欲(kāma-rāga貪欲)と怒り(paṭigha瞋恚)があるのです。さらに修行すると、智慧が進んで欲と怒りが弱まります。一来果に達します。さらに智慧を開発すると、欲と怒りが完全に無くなります。不還果の境地です。輪廻転生する生命には、必ず欲と怒りが必要です。その二つが無くなった修行者は、輪廻には戻れません。ですから、不還果と言うのです。それで、断つべき五つの束縛は終わりです。

五つを捨てる

「捨てなさい」と仰っているのは五上分結です。在家でも不還果の聖者になれます。しかし、欲と怒りが無いから、出家と同じ生活をするのです。不還者は死後かならず、浄居天(suddhavāsa)という梵天に生まれます。梵天の次元は、自分が達している禅定状態で決められるものです。あえてサマーディ瞑想を行わなくても、不還果に達した人に第一禅定の資格があります。梵天は色界・無色界の二種類です。覚りに達した梵天たちをまとめて、浄居天と呼ぶのです。不還果の聖者が、さらに一切の現象を如実に観察します。色天・無色天という梵天も存在の次元に過ぎず、無常なのです。そちらに生まれ変わったからといって大したことはないので、その希望も捨てます。Rūpa-rāga色貪、arūpa-rāga無色貪という二つの結を捨てるのです。「自分がいる」という自覚すら一時的で実際は成り立たないと発見することで、māna慢が消えます。こころが混乱する理由はすべて無くなったのです。こころがあって、情報を認識すること自体も、こころの揺らぎなのです。無常の一時的な現象しかないので、自分が何かを認識する、というステージが無くなります。それで、uddhacca掉挙を捨てたことになります。これ以上、知るべきものは何も無いので、avijjā無明を捨てたことになります。説明する必要があるから五上分結と言うのですが、不還果が阿羅漢果になるとは、その五つの結を一遍に捨ててしまうことです。

五つを修める

解脱とは、自然に顕れるものではありません。希望したからといって、嫌がったからといって、執着が消えることは無いのです。なぜならば、嫌がることですら執着だからです。要するに、「生きることは苦だから嫌になったよ」という人は、覚ったのではなく「嫌がる」という煩悩に嵌っただけです。その人は、その感情に合わせた身口意の行為をして業を溜めるのです。修行者は、saddhā信、viriya精進、sati気づき(念)、samādhi定、pañña智慧という五つの能力(indriya,根)を完成することで、執着を断つことに成功するのです。

五つの執着を超える

断つ順番を実践的に考えて、執着を十結に分けているのです。執着を五つに分けてまとめることもできます。①rāgasaṅga愛縛、②dosasaṅga瞋縛、③mohasaṅga痴縛、④mānasaṅga慢縛、⑤diṭṭhisaṅga見縛です。この五つを乗り越えたら、激流を渡った聖者と言うのです。煩悩・執着を断つことで、完全なる解脱に達します。今まで苦を楽だと勘違いして苦しみのみに執着していた俗世間の人が、究極的な本物の安楽に達するのです。その道は、信仰・行・仕来り・習慣・祈りなどの神秘的・迷信的な方法ではなく、しっかりした具体的な「自己観察する」という実践なのです。

今回のポイント

  • 俗世間は苦を楽だと勘違いしている
  • 苦が楽の幻覚をつくる
  • 苦があるから命に執着するという矛盾が生じる
  • ひとは執着に気づかない
  • 執着を断つための精密なプログラムがある
© Japan Theravada Buddhist Association.