見た目では分かりません
ひとは内面が大事です Beauty is only skin deep
経典の言葉
Dhammapada Capter XXVI. Brāhmaṇavagga 第26章 婆羅門の章411.Yassālayā na vijjanti
Aññāya akathaṃkathī
Amatogadhamanuppattaṃ
Tamahaṃ brūmi brāhmaṇaṃ
執する所更になく
義を了知して疑わず
不死なる道に至り得ば
そをバラモンと我は説く
(Dhammapada 411)
身体を見ても聖者とはわからない
仏教の聖者(阿羅漢)とは、どのような人なのか? これは仏教に興味がある人なら誰でも多かれ少なかれ感じる疑問でしょう。昔の人々も当然、同じ疑問が抱いていました。しかし、仏教のプロがいくら説明してあげても、一般人にはなかなか理解できません。そこで仕方なく説明の手段を変えて、表面的な差異で聖者を説明しようと試みたのです。要するに、見ただけで聖者を発見できる方法を掲げて、「聖者の身体と一般人の身体はどのように違うのか」について説明し始めたのです。よく考えれば随分おかしな話ですが、誰もこの説明に疑いを抱かなかったようです。
人間離れしていく釈尊像
いちばんの被害者は、お釈迦さま自身です。誰だってお釈迦さまのことは知りたいと思っていたので、それに応えてさまざまなことが語られるようになったのです。釈尊在世の時は、身体の特色よりはブッダ特有の智慧の力について説明されていましたが、じわじわと身体の特色も説明されるようになりました。もっとも有名なのは三十二相の話です。ブッダには、常識では考えられない三十二種類の身体的特色があると語られたのです。その一つは、jālahatthapāda(網目のような手足のある相)です。手足の指の間が金色の皮膚で繋がっているという特徴です。指は自由に動かせますが、私たちの指のようにきれいに独立しておらず、鳥の水かきのような膜があるそうです。これって便利でしょう? 突然出会った修行者の手足の指が、水かきのように繋がっているならば、その人は必ず、ブッダなのだそうです。この特色は、ブッダと転輪王以外の一般人にはありません。また、uṇhīsasīsa(肉髻相「にくけいそう」)など、見ただけでわかる人相もあります。最終的に、釈尊の姿は、この世にあり得ない超越した身体を持つ人間として描かれるまでになってしまったのです。
阿羅漢は超人化の被害を受けなかった
このように表面的に超人相が見えるならば、どんな人間にもブッダを発見することができます。阿羅漢たちにも、そのような人相物語を作りたかったでしょう。しかし、その目論見は成功しませんでした。マハーカッサパ大尊者だけは例外で、三十二相のうち八種類があったと語られています。八十人の大阿羅漢についても、それぞれ身体の特徴が説明されますが、決して超人相の話ではないのです。一人の大阿羅漢は、極端に背丈が小さかったそうです。目連尊者の肌の色は黒かったそうです(仏典では青色だったと説明しています)。身体の形はバラバラであっても、偉大なる聖者であることには変わりはないのだと強調したかったのでしょう。これは仏教的な正しいアプローチです。覚ったら身体に何か変化が起こるのだと信仰している現代人も少なくありません。こころが清らかになって完成したならば、そのこころが管理している肉体にも、微妙な落ち着きが見えることはあり得ます。しかし、そこから「一般人から落ち着いているように見える人が聖者だ」と決めるのは飛躍し過ぎです。世の中には、怖く見える身体を持つがこころ優しい人もいれば、美しく優しい人間に見えるが内面は恐ろしい人もいるのです。
人相でこころは読めない
問題の始まりは、一般人の聖者発見の探究心です。聖者は見た目で発見するものではないのです。覚りに達しても、人の見た目は変わりません。しかし、生き方が変わるのです。生き方が変わったとしても、聖者であると断定するのは一般人には不可能です。聖者でない人も、落ち着いて正しい生き方を営む場合があります。パーリ経典は偉大なる人の三十二相を説明しますが、決してそれが聖者を特定する証拠になるとは説かれていません。たとえば、転輪王は覚りに達してない一般人です。政治家です。しかし、彼にも三十二の超人相があると言われているのです。
身体ではなくこころを見る
身体ではなく、こころを見なくてはいけないのです。こころに煩悩が一切ないならば、煩悩が現れる可能性すらないならば、聖者です。阿羅漢です。智慧を完成しているならば、聖者です。ダンマパダ第二十六章のすべての偈において、こころ清らかにした人が聖者であり、バラモンであると強調しています。阿羅漢のこころの状況が明確に語られていますが、それを読んだからといって、一般人に聖者を発見できるとは思えません。超越したこころの状態に達した人にだけ、相手のこころも超越状態に達しているか否かが言えるのです。一般人も自分の能力を駆使して相手を調べて「立派な人だ」「素晴らしい人格者だ」などの結論に達することはできますが、阿羅漢である、聖者であると断定することは不可能です。
生命のよりどころ
今月も阿羅漢のこころの内容を紹介します。阿羅漢には愛着がありません。Ālayaという単語は、愛着と訳されています。Ālayaの元の意味は「家」、英語でいうhomeです。建物を指すhouseではありません。Homeとは、肉体的にも精神的にも、誰もが頼りにする場所です。皆のよりどころです。すべての人間に、マイホームがあるのです。仕方がなくホームレスになる人々でさえ、どこかの場所をマイホームにするのです。家を使わず森に住む人であっても、マイホームと言える場所があるのです。リヤカーに家財道具を積んで生活するホームレスもいます。その人々にとっても、夜泊まれる場所がマイホームになるのです。しかし、実家・我が家と言える場所があるならば、精神的に安定します。ネットカフェで夜を過ごして通勤することになると、精神的に不安定になるのです。ですから、マイホームとは決まった場所にとどまらず、精神的な安らぎを求めるよりどころなのです。どんな人間と話してみても、マイホームという気持ちをもっていることを発見できます。こころからマイホームという概念が消えたら、気が狂うかもしれません。
聖者にマイホームはありません。それが大胆なポイントです。マイホームが無ければ精神的に狂ってしまうはずなのに、摩訶不思議なことに徹底的に落ち着いているのです。まるで、広大無辺な大宇宙そのものがマイホームになったかのように落ち着いています。聖者に精神的なよりどころは要りません。肉体を持っているから、適量に食べものや衣などを使うが、それにさえ執着も愛着もないのです。「使い捨て」の気持ちで使っているのです。Ālayaという単語を、執着と訳することもできます。何かに執着しないと、命が成り立たないのです。ひとは衣食住薬に頼る必要があります。空気と水に頼る必要があります。眼耳鼻舌身意から入る情報に、頼る必要があります。それは「生きていきたい」という存在欲があるからです。存在欲を根絶した時点で、ものごとに頼る必要もなくなるのです。それでは、生き続けられないのです。言葉を変えると、輪廻転生ができなくなるのです。この肉体が壊れたら、涅槃に入ります。聖者には、一切の依存がないのです。
疑がなくなる
聖者になるためには、智慧を完成しなくてはいけないのです。智慧があらわれると、疑が消えます。一切の疑がなくなるのです。というと、また疑問が起こるかもしれません。聖者に「私の名前と生年月日を言ってください」と尋ねたら、「知りません」と答えるでしょう。だからといって、「この聖者は私の名前と生年月日を知らない。それに関する疑があるのではないか?」と言ってはならないのです。これは精神的に悩むような疑問ではありません。「知りません」という言葉に注意してください。聖者になったとしても、外国語はわからないかもしれない。知らない場所、街などがいっぱいあるかもしれない。われわれの場合、知らないことで困るかもしれませんが、聖者は「知りません」だけで終わるのです。知る必要があったら、「聞けばわかります」という程度のことです。
実存的危機(existential crisis)※
聖者にとって、存在に関わる疑義、真理に関わる疑義は一切ないのです。疑がないと言われると、一般人は「覚りに達したら、なんでも知っている全智者になる」という形而上学的な落とし穴に陥りがちです。それを避けるために、実存的問題を仏教で分析しているのです。基本的には、八種類になります。
※実存的危機とは、個人が自分の存在の基礎・基盤そのものに対して疑を抱くことです。生きることに意義があるのか、目的があるのか、価値があるのか、などなどの疑問です。An existential crisis is a moment at which an individual questions the very foundations of their life: whether this life has any meaning, purpose, or value.(Wikipedia)
八種類の疑
①ブッダに対する疑:「真理を発見して完全に存在を乗り越えた人などいるのか? あり得ないのではないか?」などなどの疑い。ブッダとは実存的危機を乗り越えた人です。自分にその危機があっても、乗り越えた人がいるのだと知るならば、その疑から抜ける道が見えるはずです。はじめからブッダという概念に対して疑を持つと、どうしようもないのです。
②法(ダンマ)に対する疑:真理を発見した人が、その真理を人間に語るのです。それに法と言います。一切現象のありのままの姿を法と言います。存在のありのままの姿も法と言います。これらの法を知るならば、実存的危機が解決します。最初から真理を疑うと、どうしようもないのです。
③サンガに対する疑:サンガとは真理の教えを実践して存在の問題を解決して乗り越えた人々です。そのような人々はいるはずがないと疑うと、自分自身の実存的危機はそのままです。
④修行に対する疑:戒を守って、こころを落ち着かせて、冥想修行で集中力を育てて、真理を観察して智慧を開発して、解脱に達する道を歩むならば、存在を乗り越えられます。その修行を認めないならば、否定するならば、結果があり得ないと思うならば、その人の精神的な悩みは消えるどころか増えるばかりです。
⑤前際(過去)に対する疑:これは自分自身に過去があったのか、なかったのか、などなどと考えて困ることです。
⑥後際(未来)に対する疑:これは自分自身に死後があるのか、ないのか、などなどと考えて困ることです。
⑦前後際(現在)に対する疑:これは今・ここで自分自身に命というものがあるのか、ないのか、自分がいると言えるのか、言えないのか、などなど自分自身の存在に対することを考えて、疑って、困ることです。
⑧縁起に対する疑:因果法則は、一切現象のありのままの姿を明らかにします。因果法則を知った人には、一切現象に対する疑が起きません。すべては因縁によって一時的に成り立って、消えていくものです。なんの見解も持つ必要はないのです。それにもかかわらず、因果法則を最初から否定して、この命は誰が作ったのか、この宇宙は誰が作ったのか、突然あらわれて消えるのでしょうか、などなどと考えて困ることです。
経典にある十六種類の疑
パーリ経典では、過去・現在・未来に対する疑をさらに詳しく説明しています。
過去に対して、①私は過去世にいたのでしょうか? ②私は過去世にいなかったのでしょうか? ③私は過去世で何になったのか? ④私は過去世でどのようになったのか? ⑤私は過去世で何になり、その後何になったのか?
同じ疑問を未来に対しても、現在に対しても作ることができます。⑥私は未来に現れるのか? ⑦私は未来に現れないのか? ⑧私は未来に何になるのか? ⑨私は未来にどのようになるのか? ⑩私は未来に何になり、その後何になるのか? ⑪今・現在に、私は存在しているのか? ⑫今・現在に、私は存在していないのか? ⑬今・現在に、私は何であるのか? ⑭今・現在に、私はどのようにあるのか? ⑮この命はどこから来ているのか? ⑯この命はどこへ行く者になるのか?(MN.1-2, Sabbāsavasuttaṃ)
ここで紹介した八種類と十六種類のリストには、人間が抱く、また抱く可能性のある、実存的な疑問がすべてカバーされています。現代人が持っているさまざまな実存的な疑問もこのリストに入っているのです。阿羅漢に一切の疑がないというのは、これらの疑がすべて消えることなのです。阿羅漢になるとは全智者になることだと、うかつに誤解してはいけません。「全智者でないならば、阿羅漢にも疑があるのではないか?」と邪見を持つことは間違いです。ひとの名前くらい知らなくても、どうでもいいことです。しかし阿羅漢は、存在についてすべてを知っているのです。人間が抱えている問題に、正しく答える能力を持っているのです。
不死に達している
不死(amata)とは涅槃の境地です。これも一般人に理解できない単語です。不死と聞いた途端、「永遠の命」と勘違いしてしまうのです。生きるとは苦です。永遠に生きるとは、永遠に苦ということです。無常の苦であった自分が修行して、永遠の苦に達したというのはおかしな話です。阿羅漢とは、存在を乗り越えて安穏に達している方です。その境地は、言葉で表現できる範囲を超えています。このような状態に達した人こそが、阿羅漢であり、真のバラモンなのです。
今回のポイント
- 聖者は人相では分かりません
- 釈尊は人間離れした姿に描かれた
- 聖者によりどころはいらない
- 疑は完全に消えてこころが安定している
- 聖者に実存的危機は成り立たない