真理と事実
事実を知ること、真理に達すること Discover the facts and realize the truth.
経典の言葉
Dhammapada Capter XXV. Bhikkhuvagga第24章 比丘の章
364.Dhammārāmo dhammarato
Dhammaṃ anuvicintayaṃ
Dhammaṃ anussaraṃ bhikkhu
Saddhammā na parihāyati
法に囲まれ(法を住処にし)法悦し 正しき法を識り分けて
正しき法を憶う比丘 妙なる法から退かず
(Dhammapada 364)
集中砲火を浴びる「真理」
Satyaṃ eva jayate とは、インド文化でよく親しまれているスローガンです。真理のみが勝利を得る、という意味です。あらゆる不公平な、理不尽なことばかり起きて、負けて落ち込んでいる時、このスローガンが心を癒してくれることでしょう。しかしこのフレーズは、現実を語っているものではないのです。私たちが経験している範囲では、必ず真理のみが勝利を得るという事実はありません。どういうわけか知らないが、真理だけが常に攻撃の的になっているのです。
たとえば進化論は、今もアメリカでは厳しい批判を受けています。化石などを調べて人間の進化を語っているが推測に過ぎない、証拠は不充分、などと攻撃されるのです。「神が人間を混乱させるために、意図的に地球の古い地層に化石を埋め込んでおいた」と吹聴するほど、進化論反対派は自信満々です。しかし細胞の構成や遺伝子の研究から、「生命は皆、止まることなく進化し続けているのだ」ということは科学的に証明されている事実です。世間は、事実を素直に認める性格は持っていないのです。伝統的なこと、信仰、迷信、先入観、文化的価値観などが、優先的に信頼されます。人間の頭に事実を植えつけるためには、けっこう戦わなくてはいけない。それは時間がかかる作業なのです。
真理を知ったほうが、認めたほうが、よいに決まっているのです。病は悪霊の怨念・神の裁きなどの結果だというよりは、ウィルス・細菌などに感染しているのだと認めたほうが、人間は助かります。それでも、真理・事実をこの世で通用させるのは難しいことです。「真理のみが勝利を得る」という先に述べたフレーズを現実に合わせて訂正するならば、「真理のみが勝利を得るべきである」とせざるを得ないのです。
真理(dharma,dhamma)の意味はさまざま
問題は、「真理とはなんですか?」ということです。俗世間的な真理もあるし、科学的な事実もあるのです。このどちらも、時と場合によって変わるものです。科学的な事実の場合は、事実は訂正されます。俗世間の真理の場合、その保証はありません。人間の都合によって、真理の定義が変わります。商売を営んでいる人びとは経済に関わる事実に興味を持つし、政治に関わる人びとは国民の気持ちの揺らぎが気になるのです。インド文化では、事実(satya,sacca)と真理(dharma,dhamma)という二つの概念があります。Satya(サティヤ)とは人間に分かる範囲の事柄かもしれませんが、dharma(ダルマ)は最終的な事実というニュアンスを持っているのです。satyaをそれなりに知っている可能性はあるかもしれませんが、dharmaを知っているという保証はありません。ですから皆、生きる目的として、dharmaを探し求めなくてはいけないのです。Dharmaに達する、dharmaと同一になる努力をしなくてはいけないのです。
というわけでdharmaという言葉は、日常的な範囲から飛び出して精神世界にも入り込んでいます。しかしこの二つの概念を明確に区別することはしません。ふつうは、satyaを使ってもdharmaを使っても構わないのです。文脈に応じて使い分けをするのです。同義語として使っているが、明白な同義語でもありません。嘘の対義語はsatyaで、dharmaではありません。Dharmaの対義語はadharma(アダルマ)で、非法・違法という意味です。
Dhamma(ダンマ)という言葉は仏教用語でもあります。お釈迦様が発見された真理は、dhammaです。生命の法則です。すなわち因縁法則もdhammaです。心と物質の最終的な状態もdhammaです。人間が達するべき目的である涅槃もdhammaです。お釈迦様の教え・説法もdhammaと言うのです。仏教を実践している人びとは、dhammaを実践しているのです。修行者はdhammaに達すること(解脱)を目指すのです。解脱に達するために必要とされる三十七の条件があります。これもdhammaと言うのです。正式名は三十七菩提分法です。修行者がdhammaを実践しているという場合は、三十七菩提分法に挑戦しているのです。
Dhammārāma比丘の無礼
八十歳になられたお釈迦様は、あと四ヶ月間経ったら涅槃に入りますと、ご自分の死を予告なさったのです。ブッダの言葉(dhamma)はそのまま事実なので、仏弟子たちは悲しみに暮れました。皆、お釈迦さまのそばから離れようとしません。地方からも出家弟子たちが最後の挨拶を告げるために途切れることなく訪れ、釈尊の周りにはいつでも人びとの行列ができていました。 Dhammārāma(ダンマーラーマ)という名前の比丘は、釈尊の般涅槃という人類史上この上のない出来事について何も驚くことなく、落ち着いていました。自分の庫裏のなかに入って、同行者たちと日常の挨拶することすら止めてしまったのです。他の比丘たちはDhammārāma比丘の庫裏に行って、このように言いました。「友、Dhammārāmaよ。四ヶ月過ぎたら、偉大なる尊師であるお釈迦さまが涅槃に入られます。出家も在家信者も、四方から途切れることなく、釈尊に最後の挨拶をしに来ているのです。あなたも庫裏のなかに閉じこもっていないで、尊師に最後の挨拶をするべきです。一緒に行きましょう。」しかしDhammārāmaは黙って、返事さえしません。比丘たちの誘いに返事しないのは、失礼な態度です。それだけではなく、釈尊に合うことさえも拒んでいるように見える。比丘たちの立場から見れば、無礼極まりない態度です。
如来への本物の供養
この出来事は当然ながら、比丘たちの間で話題になりました。ホットニュースです。比丘たちはこの旨をお釈迦様に報告しました。「Dhammārāmaという一人の比丘だけが釈尊に礼をすることすら拒んでおり、無礼極まりのない態度であります。」お釈迦様はその比丘を呼びました。釈尊に直々呼ばれて、それを拒むことのできる生命は存在しません。ましてや弟子である比丘たちが、本師の言葉に逆らうわけがないのです。Dhammārāma比丘は釈尊の前に出て、礼をしました。 「君が如来に礼をすることさえ拒むのだ、という話は本当ですか?」と釈尊が訊きました。比丘は「はい、尊師。そのとおりでございます」と答えました。お釈迦様は「それはどういう理由ですかね?」と訊きました。比丘は答えます。「天人師である偉大なるお釈迦様が、あと四ヶ月以内で涅槃に入られます。もう二度と、誰も会うことができなくなります。それなのに、私どもはまだ心が汚れたままです。煩悩まみれのままです。弟子と名乗るには相応しくない。人間を超越した真理に達していないのです。釈尊のつげた予告を聞いて、私は危機感を憶えました。釈尊の目が黒いうちに、何としてでも解脱に達したい。出家した目的に達したいのです。私には余裕がありません。日夜dhammaを観察している、その時間を無駄に費やしたくはないのです。」
Dhammārāma比丘の言い分を聞いたお釈迦様が三回もsādhu(サードゥ)と言いました。Sādhuとは、その通りです、素晴らしいことです、賛成します、という意味です。それからお釈迦様が、集まった皆に語り始めたのです。
「比丘たちよ。もし私の弟子たちが、私を尊敬したい、私に礼をしたい、と思うならば、私のことを大事に思うならば、その比丘はこのDhammārāma比丘と同じ態度を取るべきです。Dhammārāma比丘こそが、私に対してほんものの敬意を払っているのです。布施、花、香などの供養は、私には何の意味も持たないものです。弟子がdhammaを実践することが如来に対する本物の供養なのです。」
それからDhammārāma比丘に向けて説法をなさいました。お釈迦様の説法の真髄は次のとおりになります。
⒈ Dhammārāmo(ダンマーラーモー)
Dhammaを拠り所・住処にすること。人びとはdhamma真理を拠り所にして生きるべきです。欲にまみれて、欲のために生きる一部の人びとを除いて、他の人びとはなんとなく真理を拠り所にしているのです。しかし誰も真理を発見していないので、生き方が曖昧です。ある人にとっては、唯一絶対の神を信仰することが真理を拠り所にしたことになります。ヒンドゥー教の人びとは、仙人たちの言葉を拠り所にしているのです。世間常識的な道徳を守れば充分だと思う人もいます。他人様に迷惑をかけないで生きることだと言う人もいます。
仏教の場合は、意味は明白です。お釈迦様がdhamma真理を発見したのです。そのdhammaに達する道も教えられたのです。仏道とは、日常生活からかけ離れた苦行まがいのものではありません。その瞬間その瞬間、自分の身体・感覚・心などを客観的に観察することが、その道です。自分の日常の生き方そのものが、仏道実践にならなくてはいけないのです。この方法に、冥想と呼ぶのです。冥想はサマタとヴィパッサナーという二種類です。冥想実践を行いつつ生きる人のことをdhammārāmoと言うのです。
⒉ Dhammarato(ダンマラトー)
Dhammaを好むもの、という意味です。Dhammaの定義は先に述べました。その定義から考えると、自分がdhammaを知っているか否かに関わらず、ひとはdhammaを好むべきです。最終的な真理を求むべきなのです。 註釈書では、サマタ・ヴィパッサナーという冥想を好むことだと解説します。冥想実践を好きになるのは、正しい好みです。しかしこの意味は少々深いと、私は個人的に思います。Dhammaを好むとは、涅槃・解脱を好むことです。それを求むことです。それを目指すことです。日常的な生きる目的は、無いのです。生きているうちになんとしてでも解脱に達したいと目標を立て、それを目指して生きることが、dhammaratoの意味だと思います。
⒊ Dhammaṃ anuvicintayaṃ(ダンマン アヌヴィチンタヤン)
Dhamma真理を考える、考察する、という意味です。真理を拠り所にすることは、信仰する宗教に関わらず全ての人間が行うべきです。しかし真理を考察するとなると、他宗教の方々は『聖書』などの意味を考えることになります。信仰を持たない自由な人びとは、自分なりに真理だとする何かを考察することでしょう。しかしこれでは曖昧です。真理に達する保証はないのです。 お釈迦様が真理を発見したのです。それを仏法として説かれたのです。仏法を理解すること、学ぶこと、繰り返し考察すること、納得いくように努力することが、dhammaṃ anuvicintayamの意味です。要するに、修行に必要な・解脱に関する理論をしっかりと理解していることです。
⒋ Dhammaṃ anussaraṃ(ダンマン アヌッサラン)
Dhamma真理を念ずること、観察すること、繰り返し随念することです。繰り返し何かの言葉を念じることは、他宗教でも見られます。一神教には、祈りがあります。ヒンドゥー教にはマントラがあります。宗派仏教にも「題目・念仏」などの言葉があります。ダンマの意味を俗世間的に取るならば、適切な行為だと言えます。しかしこれは曖昧です。祈りの種類も多種多様です。呪文も数限りなくあります。題目・念仏などの祈り文句もいくらでも作れます。どちらが正解かと、言えたものではありません。曖昧さは決して消えません。それでは真理に達することはできません。
お釈迦様が真理を発見したのです。それを仏法として説かれたのです。真理に達する方法も説かれたのです。ですから何を観察するべきかと、明確に説かれているのです。念処経では、身体・感覚・心・真理という四つを観察するように説かれています。心を開発するために、成長させるために、繰り返すことが必要です。何かを一回聴いただけでは、脳はそれを憶えられません。理解できません。繰り返しインプットする必要があるのです。それで仏弟子たちは、意味の分からない呪文ではなく、決して実ることのない祈りでもなく、dhamma真理を繰り返し心にインプットするのです。それで心が開発されます。真理を発見します。解脱に達します。念処経で説かれているように、日夜観察し続けることがdhammaṃ anussaramです。
⒌ Saddhammā na parihāyati(サッダンマー ナ パリハーヤティ)
Dhamma真理から退いて堕落することはない、という意味です。Dhamma真理の意味は、俗世間的な見地からも解説してきました。しかし最後の言葉は、dhammaではなく、saddhamma(サッダンマ)なのです。法ではなく、正法なのです。理解していてもいなくても、法を目指す権利は皆にあります。究極の真理には、saddhamma正法と言わなくてはいけないのです。それは俗世間的に推測しているdhammaと区別するためです。
ひとが真理に達する目的で、適当に呪文を選んで随念したとしましょう。しかし、これこそが道であると確信した上で始めた修行ではありません。頭に繰り返す、インプットするデータによって、頭が変化してしまうのです。覚りに達するどころか、幻覚をつくってそれに陥る結果になるのです。脳をいったん無理矢理に変えたならば、また元の正常な状態に戻すのは不可能に近いことです。それで真理を目指した正直な人が、真理から退いたことになるのです。真理とは反対のほうに堕ちてしまうのです。真理を目指す誰にでも、この危険性があります。
しかしお釈迦様は、真理を発見したのです。真理に達する道も説かれたのです。真理を隋念する人は、正法に達します。正法から退くことはありません。解脱に達するために、人格完成が必要です。人格完成とは三十七菩提分法を実践して身につけることです。念処経で説かれているように観察を実践すれば、解脱に必要とされる三十七菩提分法が次第についてくるのです。分かりやすく言えば、勝手に入ってくるのです。人格が勝手に完成してしまうのです。必要とするのは、ダンマ・真理を拠り所にすること、dhamma真理を好むこと、dhamma真理を考察すること、dhamma真理を観察・隋念することです。 この説法を聴いたDhammārāma比丘は、その場で阿羅漢果に達したのです。
今回のポイント
- 事実と真理は似ていて似てない
- 真理とは生命が達すべき目的です
- 仏道を実践することが釈尊に対する本物の供養です